2012.01.15

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「和解と赦しの福音」

陶山義雄

イザヤ書40,1-11; マタイによる福音書18,19-27

 マタイによる福音書第18章は、弟子たちと信徒にイエスが語った教えをマタイ記者がまとめたもので、一般に教会規定集と呼ばれています。マタイ記者はモーセ5書に対抗して、イエスの教えを5つの説教集にまとめています。その第四番目が教会規定集としてマタイ記者が編纂した説教集であります。ちなみに他説教集を挙げておけば、第一説教集は「山上の説教」として親しまれているマタイ5章から7章にかけてまとめられています。第二の説教集は12弟子を宣教に派遣する時にイエスがお教えになった「弟子派遣の説教」としてマタイ10章にまとめられています。

 そして第三は「たとえ話による説教集」でマタイ13章に集められています(種まきの話等)。第四の説教集が今日、ここで注目したい「指導者と信徒に向けたイエスの教えをマタイ記者がまとめた教会規定集」です。そして第五の説教集は「終末、世の終わりについての教え」で、マタイ福音書の第25章にまとめられています。

 それぞれの説教集が終わる結びの言葉としてマタイは編集の言葉として「イエスがこれらの言葉を語り終えられると」という決まり文句で締めくくられています。(マタイ7章28節11章1節13章53節19章1節そして26章1節)。

 ところで、18章の「教会規定集」ではまず、弟子たち・教会指導者たちに宛てたイエスの説教が18章1節から14節にかけてまとめられています。その中には有名な「迷い出た1匹の羊を探し回る羊飼い」の譬話があります。この譬話はルカ福音書15章にも記されているのですが、全く違った文脈に(失われた銀貨と放蕩息子など、いずれも良く知られた譬話と並べて)置かれています。それぞれの福音書記者は、あの素晴らしいイエスによる羊飼いの話を自分の福音書で新しい意味を付け加えて載せているのです。マタイについては、弟子たち、教会指導者たちが、交わりの中から迷い出た一人を最後まで訪ね、交わりへ戻すように努めることを、この失われた羊の譬話をもって伝えています。

 続いて教会規定集は信徒へのメッセージを18章15節から35節にかけてマタイはまとめています。今日のテキスト18章19節20節以下は信徒に向かってイエスが語った信徒向け教えの前半を締めくくる言葉にあたります。

 「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」「心を一つにして求める」という言葉にはギリシャ語のスンフォネー、英語のsymphony、シンフォニーに当たる言葉が使われています。私たちが親しんでいる音楽の交響曲のように、美しい音を奏でるには心が一つになっていなければならないと言うことです。「声を一つに合わせて祈り求めるならば、天の父は必ずや、その祈りに応えて下さる。」と言うことです。

 続いてイエスの最も素晴らしい言葉の一つをもって信徒への教えが結ばれています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」今、わたしたちが最も聞き従わねばならない御言葉ではないでしょうか。どんな意見の違いがあっても、心を一つにして、主の御名によって祈り、願うならば、主もまた私たちの交わりの中におられ、執り成しと和解の路を拓いて下さるという御言葉です。教会の中で、信徒間にもめ事がおきた場合、マタイ記者は、イエスのこの言葉を引用して、収束の勧めとしています。二人、または、三人が心を一つにして共に主の御名のもとで、解決を祈り求めるならば、天の父は必ずその間に立って解決の道を開いてくださる、と言うイエスから伝えられた大切な教えです。イエスの教えは、このようにマタイ教会の戒めとして受け継がれていることが分かります。そして、この教えは、現在、代々木上原教会の中にも蘇って生かされなければなりません。「二人、または、三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 こうして和解の福音が述べられたあと、これと並んで大切な「赦しの福音」が21節以下に加えられています。和解への道から、「赦しのメッセージ」を加えたのもマタイ記者でした。ペトロは12弟子の頭としてこの福音書では特に重んじられています。それは、16章18節を読めば分かります。マタイ、マルコ、ルカの三福音書では、どれにも記されてる、フィリポ・カイザリアでイエスが弟子達に訊ねた言葉、すなわち「あなた方は私を何者だと言うのか」。この問いかけに対してシモン・ペトロが答えます『あなたはメシア、生ける神の子です』。ここまでは、どの福音書もほぼ同じ問いと答えでありますが、マタイではイエスが更にお答えになった言葉はマタイの思想を映し出すもので、他にはありません。マタイはイエスにこう言わせています。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。(以下18節)私も言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトロ)の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。(19節)わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる。」

 他福音書ではこれほど迄にペトロは持ち上げられておりません。古代カトリック教会から中世ローマカトリック教会、そして現代に至るまで使徒職の頭はペトロから受け継がれている、とカトリック教会ではこの聖句を重視しています。マタイ教会にはそのような権威付けがペトロにはなされておりました。この「赦し」にまつわるエピソードでもペトロがそのように用いられています。

「そのとき、ペトロがイエスのところに来ていった。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。イエスは言われた。『7回どころか、7の70倍までも赦しなさい』」

 この後、マタイ記者はイエスの譬話「仲間を赦さない家来」の喩えを18章23節から34節までに置いています。恐らく、和解の教え(18:19〜20)とは違った場所で、違った相手にイエスが話したであろう、この譬話を、無限の赦しの例話としてマタイはここに置いています。しかし、譬話の内容は、先にイエスが諭した無限の赦しとは少し異なっており、一旦は借金を主君から帳消しにして赦してもらった家来が、今度は、自分の仲間に対して貸し与えていた、遙に小額の負債を赦すことなく、返済するまで牢屋に閉じ込める話であり、哀れに思った債務者の友人が主君に密告したので、今度は当初免責された家来を主君が懲らしめて免責を取り消し、牢屋に閉じ込める話になっています。

 33節以下:「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」

 無限の赦しが一転して解消され、牢獄に入れられる、と言う出来事は、明らかにマタイ教会の規定に合わせたイエスの譬話の改ざんであることは、同じ譬話がルカ福音書7章40節以下にある話と比べれば良く分かります。マタイ18章27節で閉じていれば、無限の赦しと一致する話で済んだところを、マタイが付け加えてしまったために、繋がりが悪くなってしまったのです。今日の説教では23節から始まる譬話を27節で止めています。無限の赦しの例話とするには、ここで止めておかなければ、話は一貫しなくなるからです。そして恐らくイエスの話はそうなっていた筈です。ルカがそのことを証明しています。

 マタイ記者が付け加えた話はそれなりに大切な意味をもっています。それは、折角、神から赦されていながら、私たちは同じ思いを持って隣り人に赦してあげる寛大な心を持っていないからです。そこで、マタイ記者が言いたかった教えは、最後の18章35節に記されています。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」これも、代々木上原教会員が真摯に受け止めるべき忠告ではありませんか。もとより、私たち罪深い存在は、無限の赦しという崇高な教えについては中々実践できません。その有難い教えは目標ではありますが、神に赦された家令が、今度は仲間に為すべき赦しについては、そのように出来なかったように、私たちも同じような過ちを繰り返して来たのではないでしょうか。だから主イエスは「主の祈り」でこう祈るように私たちを諭して下さったのです:「われらに罪を犯すものをわれらが赦す如く、われらの罪をも赦し給え。」

 私たちはそのように主の祈りを唱えながら、己が罪の贖われることを目指して繰り返し祈りながら生きています。また、聖餐に与る前に、その持ち方を議論して対立を深めるような愚かな罪を懺悔し、主の第二の御言葉に従って聖餐に与るのです:「この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」

 7度どころか7の70倍、つまり、無限の赦しを実践できるのは、これを語っておられる主イエス・キリストと、彼を地上に遣わして下さった天の父なる神以外には出来ないことであるかも知れません。私たちはただ主の祈りと聖餐によってキリストを通して天の神から赦しを頂くほかはないような存在です。

 「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」(ルカ7:50)これは、マタイと同じ譬話をルカ福音書が載せた、その結びの所で、罪深いと見なされていた婦人にイエスが語った赦しの言葉であります。私はこの御言葉によって救われた体験をもっています。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 私は赦しの希望に生きる、弱い罪人ではありますが、この御言葉を信じて生きることこそが、私の救いであると確信を持てるようになりました。主が私の身代わりになって重荷を一緒に担っていて下さる。十字架の受難の奥義が、その弱い信仰を支え、強めて下さる。許しの恵みは、もう二度と同じ罪を繰り返すまい、と言う決意へと高めてくれるのです。

 代々木上原教会は、2012年に創立15周年を迎えます。毎年開かれる定期総会では教会の宣教基本方針が掲げられ、その都度、確認されて来ました。昨年4月17日に開かれた第15回定期総会では、従来の宣教方針を(はじめに)と枠付けられた中で7項目が掲げられています。その第5項目に:「私たちの教会は『戦争責任告白』(1967年)を受け入れ、その実質化のために努力し、世界の、特にアジアの諸教会に対して心を開き、交流を深めることを目指す。」とあります。戦争責任告白の結びには、こう記されています:「まことにわたしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまた、その罪に陥りました。・・・心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主に赦しを願うと共に、世界の、ことのアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからの赦し請う次第であります。」

 罪を犯し、断ち裂かれたものが、懺悔と改心をもって立ち上がれるのは、神への信仰、赦しと再起を呼びかける歴史の主がおられるからです。かって起こったことを懺悔もせず、忘れ去ろうとするならば、おなじ罪と過ちを繰り返すことになるばかりか、被害に合った国や民衆と和解の芽を摘み取ってしまうことを恐れます。それ故に、イエスが語られた「和解と赦し」の福音はどれだけ有難い教えであることでしょうか。私たちも、この教えに従って、交わりを新しく作り立てて行こうではありませんか。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」

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