2011.12.24

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「恵みと真理」

廣石 望

ヨハネによる福音書1章1-5.9-12.14.16節
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人には神の子となる資格を与えた。

14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上に、更に恵みを受けた。

 

I

 「恵みと真理」――この二つを、今ほど私たちが必要としているときはないように感じます。

 一年前のクリスマスを祝ったとき、わずか二月半後にあれほどの大災害が日本を襲うことを、いったい誰が予想できたでしょう。もちろん現代に生きる私たちは、地震や津波が自然現象であることを知っています。しかし原子力発電所のメルトダウンと二度の大爆発による放射性物質の自然界への放出は、やはり人が引き起こした災害というほかありません。

 今から250年ほど前の1755年11月1日、ヨーロッパ大陸の沖合の大西洋海底を震源とするリスボン大地震が起こりました。この日はカトリックの祭日だったそうです。リスボン市内の建物の多くが倒壊し、教会に集まっていた信徒も多数犠牲になりました。町から港に避難した人々を、やがて高さ15mの大津波が襲ったそうです。市内は火災に包まれ、たくさんの犠牲者が出ました。

 このできごとは、その後の西欧思想に大きなインパクトを与えたことが知られています。例えば「創造主なる神が慈悲深いというのは誤りだ」という認識が生まれました。「都市型の集住が被害を大きくした。私たちは自然に帰り、田園で生きよう」という主張も。また「地震の原因は宗教的にではなく、自然科学的に解明されるべきだ」という気運も生じました。――ひとことで言えば、神による世界支配という神話から、世界の自然科学的な解明に向けて、認識の大転換が起こったわけです。神は自然に介入しない、世界は「あたかも神が存在しないかのごとくetsi deus non daretur」に説明されるのがよい、という啓蒙主義思想の始まりでした。

 その後250年ほどの間に、私たちの社会は近代技術を開花させてきました。今もその恩恵を受けて暮しています。電車に乗って高速で移動するのも、ホームページに情報を公開することもその一部です。そして近代技術のひとつの結晶的な表現が、核技術に他なりません。無限のエネルギーを生み出すための、安全でクリーンな夢の技術と謳われてきました。

 リスボン大地震は伝統的な「神」観念に危機をもたらし、むしろ「技術」を頼りに生きてゆく方向に大きく舵を切るためのきっかけになりました。そして250年後の今、私たちは「技術」の暴走がもたらす危機に直面しています。いくら地震の規模が「想定外」に巨大であったとしても、私たちの国の原子力行政が安全性を最優先するものでは決してないことは、もはや覆い隠すことができません。線量の高い地域では、「除染」は喫緊の課題です。しかし除染された放射性物質は、いったいどこに行くのでしょう。それぞれの半減期が過ぎるまで地球環境に留まり続け、やがて私たちや私たちの子どもたちのもとに返ってくるのではないでしょうか。

 この巨大な環境破壊に直面し、(再び)神と自然はどのような関係にあるのでしょうか? 偽りの安全性という非・真理を、私たちはいったいどうすればよいでしょうか?

 

II

 先ほど朗読した聖書箇所は、ヨハネ福音書の冒頭からの抜粋です。世の成らぬ先に神とともにあり、世界の創造を媒介した言(ことば)が肉となったのがイエスである、と歌われています。「言」と訳されたギリシア語「ロゴス」に因んで、「ロゴス賛歌」と呼ばれるテキストです。ヨハネ福音書をうみだした共同体ですでに歌われていた賛歌が、ここで採用されているのだろうとする学説があります。抜粋したのは、福音書に組み込まれる「以前」の賛歌に由来すると思われる部分です。

 ナザレのイエスが世界の創造者である神の前でのみもつ輝きを歌う――そのために、この賛歌は、ある神話を用います。ヘレニズム時代のユダヤ教に証言された「知恵」の神話がそれです。

 もともとユダヤ教は、創造神とその被造物なる世界を厳格に区別する宗教です。そのため世界の中に、神はいません。では、この世界に生きる人間は、どのようにして神を経験できるのか、という問いが生じます。「知恵」の神話は、この問いに積極的に答えるものです。神は知恵を通して世界を創造した、と以前から信じられていました。その知恵が世界に向けられた神の顔、いわば第二の神として、創造神と被造世界を橋渡しします。知恵はユダヤ教の律法(トーラー)として、人の心に宿ると信じられました。またイスラエル民族が律法を拒絶することで、知恵は天界に帰還したとも言われました。

 ロゴス賛歌は、この神話をナザレのイエスに適用します。イエスは神のロゴスであり、神の語りかけのできごととして、万物の創造に参与した。イエスは人間にとって命の光であり、この世に生まれる万人を照らしていると。新共同訳が、ロゴスは「世に来てすべての人を照らす」とある箇所(9節)は、「世に来るすべての人を(ロゴスが)照らす」と訳すことも可能です。すると私たち皆が目にする太陽の光は、そのクオリティーにおいて神の光なるイエスの放つ光なのです。

 

III

 神話を用いてイエスを讃えること――このことは、いったい何を意味するでしょうか? 三つほど申し上げます。

 第一にこの賛歌は、イエスのできごとがもつ意味を、この上なく高く評価しようとしています。マルコ福音書が、成人したイエスが洗礼を受けるくだりから物語をスタートさせるのに対して(マルコ福音書1,9以下)、マタイはイエスの誕生から語り始め、その系図をイスラエル民族の父祖アブラハムにまで遡らせます(マタイ福音書1,1以下)。他方、同様にイエスの誕生物語を知っているルカは、イエスの系図を人類の祖先アダムにまで遡らせます(ルカ福音書3,38)。さらに最も成立の若いヨハネ福音書は、世界創造に先立つ〈原初の時〉から語り起こすことによって初めて、イエスのできごとの意味をもっとも適切に表現できると考えたのです。

 これは、もともと一人の人間にすぎないイエスを、神にまで祭りあげるという過ちなのでしょうか。それとも一人の人間に無限の尊厳を認めることは、神の原初からの意志に叶うものであり、ロゴス賛歌はその実例なのでしょうか。

 第二にこの賛歌は、神のロゴスに対する世の拒絶について語ります。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(10-11節)。イエスはローマ帝国の東端にあるユダヤの国で、ローマ帝国に対しては「王」を名乗り――彼は「神の王国」の到来を告げました――、エルサレムの神殿貴族に対しては「新しい神殿」の出現を予言した(マルコ福音書14,58)という廉で、十字架刑に処せられた一人の反逆者に過ぎません。同じように殺された不穏分子は、他にも大勢います。そのことを指して、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と言うのは、大げさであるばかりか、反逆のにおいがするのではないでしょうか。

 ここでは「律法」に内在するという神の知恵の神話、その知恵に対する民の拒絶という神話が、イエスの虐殺の死に当てはめられています。これはたんに大げさなだけの話なのでしょうか。それとも無辜の民の故なき苦難が、愛のないこの世の論理をあからさまにすることのしるしなのではないでしょうか。

 第三にロゴス賛歌は、「言は、自分を受け入れた人には神の子となる資格を与えた」(12節)と言います。イエスを受け入れることは、イエスが世界の創造者の心を体現する人物であり、そのスピリットは彼が亡くなった今も自分たちを生かし続けている、と信じることと同じです。イエスには「父の独り子としての栄光」が輝き出で、「恵みと真理」が満ちていた、と賛歌は歌います(14節)。これが、特定宗教団体のたんなる独断的な要求でなく、外部の人々にも理解可能なものであるためには、何が大切でしょうか?――そのための手がかりは「私たちは…見た」という発言にありそうです。

 

IV

 神のロゴスが肉となったその輝きを「私たちは」イエスに「見た」、尽きせぬ恵みを「私たちは」彼から「受けとった」。――ここで歌いだされているのは、この賛歌を作った人たちの経験です。経験は理論ではありません。理論を転用した技術によって導き出すことはできませんし、必ずそうなるという強制力からも自由です。その意味で経験は偶然のものです。じっさいに経験した人が、ある認識に向けて目を開かれるだけのことです。しかも同じことに接しても、人によって解釈は一様でないのがふつうです。ちょうどイエスに出会った一部の人が、神の心を体で現わす存在との出会いを経験した一方で、他の人々が彼をたんなる冒涜者・反逆者の一人として経験したように。

 では、イエスと出会った一部の人は、なぜこの人物に「恵みと真理」が満ち溢れていると思ったのでしょうか? ――それを知るには、ヨハネ福音書の本体をくわしく読む必要があるのでしょうが、ごく単純に言って、彼らがイエスとの出会いから、生きる勇気と喜びを受けとったからだと思います。この経験の意味をもっとも深く、あるいはもっとも高く評価するためにこそ、ヘレニズム・ユダヤ教の知恵の神話が用いられているのです。

 では、そのできごとは、ナザレのイエスに限定されるのでしょうか? 知恵の神話は、排他的にイエスの歴史とのみ結び合わされるべきものなのでしょうか?

 この問いは、〈キリスト教は他の諸宗教をどう理解するのか〉という大きな問題につながっています。しかし今は、次のことだけ申し上げます。すなわちイエスのできごとを無限に高く評価することが、この世界で生じるあらゆることを、そのもっとも深い意味において、いちばん高く評価することにつながる、とこの人々は信じたにちがいないと。

 「恵みと真理」――恵みとは、私たちが生きるために与えられたこの環境世界を満たす神の愛。真理とは、イエスを通して輝き出た、「神の子ら」としての私たちの小さな命の尊厳です。このことを経験することが、イエスとの出会いによって可能になりました。今日は、そのことを祝うための聖夜です。

皆さまお一人おひとりに、メリークリスマス!

 

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