2011.9.11

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「怠慢にならず」

村椿嘉信

出エジプト記4,10-17; ルカによる福音書10,25-37

旧約聖書:出エジプト記4,10-17

10:それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。 11:主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。 12:さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。 13:モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。 14:主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。 15:彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。 16:彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。 17:あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい」。

新約聖書:ルカによる福音書10,25-37

25:すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。 26:イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27:彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。
28:イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。 29:しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
30:イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 31:ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32:同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 33:ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34:近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 35:そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』。 36:さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37:律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」。そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

罪=神のみわざを拒否すること

カール・バルトという神学者について、私はこの説教の中ですでに紹介したことがあります。

バルトは、神さまを常に、目の前にいて、生きて働いておられる方、今、みわざを行いつつある方として理解しました。そして人間の罪を、「生きて働いておられる神さまに背を向けること」と理解しました。今、生きて働いておられる神さまのみわざを受け入れないこと、今、私たちに声をかけてくださる神さまの声を聞かないこと、それが私たちの「罪」です。

バルトによれば、人間の言葉で表わされている律法に違反しているかどうかを、人間が決めることはできません。律法に反しているかどうかを知るためにも、まずは律法を私たちに与え、私たちを生かそうとしている神さまのわざ、神さまの言葉を知ることが大切です。その場合に、私たちがもし神さまのわざ、神さまの言葉に反しているなら、私たちは罪をおかしていることになります。

バルトは、罪についてのまとまった教えを、それだけが独立した理論として展開することはしませんでした。つまりバルトが罪について述べる場合に、それを人間論の一部のようなかたちで、人間がいかにおろかな存在であるかと指摘するようには展開しませんでした。

バルトは常に神さまのみわざについて語りながら、あるいは十字架にかけられ復活したキリストについて語りながら、いわばそのついでに、人間の罪について語りました。だからバルトが神さまについて書いたおびただしい文書のいたるところに、人間の罪についても描かれています。バルトは、神さまについて何も述べずに、人間の罪についてだけまとめて書くというようなことはしませんでした。それはできないことだからです。

神さまが私たちにAというみわざを行ってくださる‥‥その時に、そのAというみわざを受け入れないことが罪です。

神さまが私たちにBというみわざを行ってくださる‥‥その時に、そのBというみわざを受け入れないことが罪です。

神さまが私たちにCという言葉を語りかけてくださる‥‥その時に、そのCという言葉を聞こうとしないことが罪です。

このように、いつも神さまのことを覚えながら、それに逆らおうとしている自分を見いだすという仕方でしか、私たちは罪について語ることはできません。

たとえば私たち人間には、神さまからそれぞれに「いのち」が与えられています。その「いのち」は神さまのものであり、私たちは神さまによって生かされています。

私たちがもしここで、いや自分は自分で生きているのだと考えるとしたら、そのような生き方をするとしたら、それは罪です。あるいは、自分のいのちはどうなってもいいと考え、いのちをそまつにし、いのちよりも財産や社会的な成功が大切だと考え、それを求めて生きるとしたら、それは罪です。

でもそういう私たちを生かし、私たちに常にいのちの大切さを教えるのが、神さまです。神さまは、私たちがいのちをそまつにしないように、私たちに働きかけ、語りかけています。

私たちがいくらいのちをそまつにしても、いのちは神さまのものであり、いのちが尊いものであることにはかわりがありません。

つまり、人間は決して神さまに逆らうことはできないのです。でもさからってみせる、そして自分がいのちの支配者であるかのようにふるまう、それが人間の罪です。自分が神さまのように力ある存在だと思い込むところに、あるいは自分は神さまに背を向け、神さまとともに歩もうとしないところに私たちの罪が始まります。そしてその罪は、私たちの人生に、あるいは人間の歴史に暗い影をなげかけます。それが具体的なかたちをとって私たちに大きな影響を及ぼします。自分を神さまの見守りのうちに生かさず、人々のいのちを軽視し、自分の利益のみを求める人間の罪が、犯罪や戦争を引き起こします。

でももとに戻って、私たちの罪がどんなに大きなものであったとしても、それで神さまがいなくなってしまったり、神さまの働きかけが終わりになってしまうのではありません。

私たちがイエス・キリストを十字架にかけても、イエス・キリストはいなくなってしまうのではありません。私たちがイエスとともに生きることをいくら拒否しても、イエスは私たちとともにいてくださいます。イエスは、イエスから離れ去ろうとする私たちを受け入れ、私たちとともに居続けてくださいます。それがイエスの赦しです。私たちがいのちをそまつにしても、その私たちを受け入れ、私たちを憐れみのもとにおいてくださるのが神さまの赦しです。そのことこそ、イエスの十字架と復活によって示されていることです。

それなのに、私たちは赦されてもまた罪を犯し、神さまから離れようとします。そういう私たちを赦す神さまのもとで、私たちがどう生きていくのかが、私たち一人ひとりの課題として問われています。


3つの罪 − イエス・キリストとの関連で

さてそういうことを明らかにしようとしたバルトが、イエス・キリストの十字架と復活について述べた和解論の中で、三つの罪を明らかにしています。この三つだけが、人間の罪であるということでは決してないので、私たちは誤解しないようにしたいと思いますが、少なくとも、主イエスと私たち人間について考える時に、そこで三つの罪を指摘できるということです。わかりやすく説明します。

ひとつは、主イエス・キリストという羊飼いがいて、まさに羊である私たちを生かしてくれるのに、

私たちが主イエス・キリストになろうとすること、私たちが羊飼いになろうとすることです。

バルトは、それを傲慢さと呼んでいます。私たちが神さまになろうとする、私たちが神さまや金の子牛を造り出す、そして神さまのようにふるまったり、神さまでさえ自分の思い通りに操ろうとする、それが<傲慢さの罪>です。

もうひとつは、主イエス・キリストという羊飼いがいて、まさに羊である私たちを生かしてくれるのに、主イエスのもとで、主イエスから必要なものを手に入れて、羊として生きていこうとしないことです。これをバルトは<怠慢の罪>と呼んでいます。

神さまが人間によくしてくださるのに、日々の糧を与えてくださるのに、主イエスが私たちを愛し、助け、ともにいてくれるのに、私たちが何もしないこと、それが怠慢の罪です。

もうひとつは、いくら私たちが羊飼いになろうとしても、主イエス・キリストという羊飼い以外にはあり得ないのに、そして私たちが羊の囲いから外にでようとしても、主イエス・キリストという羊飼いは、私たちを探し出し、私たちとともにいてくれるのに、その事実を偽るということです。バルトは虚偽の罪、真実を偽る<虚偽の罪>だと呼んでいます。神さまの圧倒的な光、この世のまことの光が輝いているのに、それを覆い隠そうとするのが虚偽の罪です。

バルトはこのような書き方をしたために、図式的、抽象的、観念的という批判を受けることがありましたが、徹底的に聖書に学ぼうとしており、私は、今ここで述べたことは当たっているのではないかと思います。すくなくとも、聖書の言葉を理解しようとする時に、バルトの神学のこのような箇所は役立つ言葉であると言えると思います。

人間はいのちを与えられ、さまざまな力を与えられています。それを用いて、私たちは神さまのような存在になることはできません。私たちは神さまを自分の思いとおりに動かすことはできません。私たちは、ちっぱけな存在です。人間は土のちりから造られた存在にすぎません。聖書によれば、私たちは土塊(つちくれ)です。でも聖書によれば。考えることのできる存在であるばかりではく、神さまに祝福され、神さまに守られ、神さまが愛し、常に見守っていてくださる存在です。人間は土塊だけども、神さまに愛され、生かされた土塊であることを知ることが大切です。そしてそのような者として生きることが大切です。


よきサマリヤ人のたとえ

イエスのたとえ話の中で、祭司は、神殿で神に仕える最高の地位についていたわけですから、傲慢なところがあったのかもしれません。神殿の祭儀をつかさどるために、道を急いでいたのかもしれません。自分は神さまのための仕事がある、自分たちにしかできない特殊な仕事、聖なる仕事がある。これをほかの人に任せることはできない。病人の世話など誰にでもできることで、自分の仕事ではないという傲慢さがあったのではないかと想像できます。

レビ人とあるのは、これだけでは、実際にどのような仕事をしていたのか、どのような人物だったのかはわかりませんが、やはり神殿で仕事をしながらも、決して高い地位についていたわけではなく、いわば雑務をこなす人であったのかもしれません。それなりに誇りをもっていたと思われますが、この世的には、自分の地位や身分に満足していなかったのかもしれません。積極的に何かをしようとする意志はなく、ただ与えられた仕事をこなすだけの人であったのかもしれません。このあたりは想像にすぎません。

いずれにせよ、この二人は、強盗に襲われ、傷ついた旅人を助けようと思えば助けられたのに、助けませんでした。その意味で、この二人とも、怠慢の罪をおかしたのだと言えまず。

でもイスラエルの人々からは異なった伝統、異なった信仰を持っていると見なされたサマリヤ人の一人が、たまたま旅をしていて、そしてその途上で偶然にであった人の傷を介抱し、その人に必要なことを行いました。主イエスはこのことが大切なのだと語りました。

これはイエスのたとえ話のひとつです。イエスが語りたかったこと、それは一人の人が傷つき、倒れているときに、その傍らを通り過ぎて、その人を見捨てるのではなく、その苦しみや痛みを除去するために、その人の苦しみや重荷を知り、その人に関わるということがどんなに大切かということです。

自分が神さまになるのではなく、自分が神さまから生かされているように、そこで傷ついている人も神さまから生かされているのだということを知り、自分に与えられている力を生かして、その人に関わるということをイエスは求めています。

怠慢にならず神さまから与えられている力を生かして歩みましょう。だからといって傲慢にならず、神さまからこのような力を与えられているから、それを隣り人のために生かすことができるのだということをたえず覚えつつ、神さまの力に生きるものとなりましょう。



祈ります:

主なる神さま、 私たちを創り、いのちを与えてくださり心から感謝します。
まことの羊飼いによって、導かれ、
生かされていることを覚え、感謝します。
怠慢にならず、あなたに与えられている力を用いて歩むことができますしょうに。
傲慢にならず、あなたの導きにたえず従いながら生きることができますように。
あなたが私たちをとらえ、養い、導いてくださることを
偽ることなく、人々に伝えることができますように。
そしてあなたの見守りのうちに、
隣人兄弟姉妹と力を合わせ、ともにあなたの力に生きるものとなれますように。
主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン
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