2011.9.4

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「神にはなれない」

村椿嘉信

出エジプト記32章1−10節; ローマの信徒への手紙1章18−23節

旧約聖書:出エジプト記32章1−10節

32:01モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、 32:02アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」 32:03民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。 32:04彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。 32:05アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。 32:06彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。 32:07主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 32:08早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 32:09主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 32:10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」

新約聖書:ローマの信徒への手紙1章18−23節

01:18不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 01:19なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 01:20世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 01:21なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 01:22自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 01:23滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

神にはなれない

 聖書は、私たち人間は神の被造物であると語っています。さきほどのローマの信徒への手紙1章20節にも「被造物」という言葉がありました。「被造物」とは、神さまに造られたものという意味で、創造者である「神さま」と、被造物である私たち「人間」との間には、大きな違いが存在します。私たちは、被造物である人間、あるいはその他の、神が創造されたあらゆる物「を通して、神を知ること」はできますが、「神」になることはできません。

 日本語では「神」という言葉はさまざまな意味で使われています。人間はすべて死んで、「神」になるという考えもあります。また現代では、天才的な能力を発揮する人を「神」と見なすことがあります。「あの人は、料理の神さまだ」とか、「外科の神さまは誰か」というようなことが話題になります。

 でもどんな天才でも、どんな能力の持ち主でも、「いのちの創造者である神さま」になることはできません。被造物が「創造主」となることはできません。それが聖書の教えです。もし私たちが創造者である神さまに限りなく近づくことができるとか、神さまになることができるのだと考えるとしたら、その人に聖書は大きな警告を告げています。パウロは、ローマの信徒への手紙の第1章22節以下で、人間は、「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」とあります。パウロは、人間が創造者である神の栄光を、ほろびゆく被造物のイメージと取り替えたと指摘しています。そして、そうするぐらいに、人間は愚かだと語っています。

 被造物である人間は神さまになることはできません。また神さまに造られた、被造物を神さまにすることはできません。とろこがそのような被造物にすぎない人間は、決して自分たちの限界を認めようとせず、愚かさの上にさらに愚かさを重ねようとしています。そのことを明らかにしている個所のひとつとして、創世記32章の金の子牛についての個所をとりあげてみたいと思います。


金の子牛

 モーセがシナイ山で神の掟を聞いていたまさにその時のできごとでした。32章1節以下にこうあります。「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、(イスラエルの)民がアロンのもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言」いました。すると、2節、「 アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい』」。

 3節以下にさらにこうあります。「民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。 彼はアロンはそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、『明日、主の祭りを行う』と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた』。

 イスラエルの民は、モーセがいなくなったので不安を覚え、『若い雄牛の鋳像』を造りました。そしてそれにひざまづき、拝んだのです。

 ところで8節に「若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげ」たと書かれています。まさに金の子牛という偶像をつくり、それにひれ伏し、いけにえをささげたように描かれていますが、聖書学者たちは、これは金の子牛そのものを偶像に仕立て上げ、それを拝んだのではなく、金の子牛の上に乗っていると考えた神々を拝もうとしたのだというように説明しています。

つまり金の子牛を神さまだと考えたのではなく、金の子牛の上に乗っている見えないかたを神さまだと見なしたことになります。なぜそうしたのかというと、神さまという方が見ることができず、とらえがたい存在だからです。その上に神さまがおられるのだと考えると、そのうちにほんとうにそこに神さまがいて、自分たちを見ていてくれるような錯覚に陥ります。そしてその結果、安心できるのです。

 金の子牛は、まさに、私たち人間が、神さまにいてもらいたいと思う場所に、神さまにいてもらうための仕掛けです。この部屋の中央に神さまにいてもらいたいと思えば、中央にその子牛をもっていけばいいのです。別の場所に神さまにいてもらいたければ、そこに子牛を持っていけばいいのです。

 でもそのような形で、金の子牛の上にかならずいてくれる神さまというのも、私たちが勝手に思い描き、頭で想像した偶像にほかなりません。しかしたとえそうであっても、人間は安心したいあまりにそのようなものを造り、寄りすがろうとするのです。


神さまはどこにいるのか

 神さまの居場所を固定化するための道具、神さまの居場所を自分たちの思いどおりに設定するための道具が、「金の子牛」と言えるかもしれません。

 神さまがどこにいるのかわからない。ここにいると誰かにはっきり示してほしい。そういう要求を満たすために金の子牛が造られたのです。

 でも神さまはどこにいたのでしょうか。どこにいるのでしょうか。神さまはイスラエルの民がエジプトを脱出するさいに、モーセを通して、繰り返し、語りかけました。また神さまは行動をとおして、神さまがイスラエルの民とともにいるのだということを伝えました。

 神さまは、出エジプト記3章によると、神さまがあなたがたの苦しみを見、叫び声を聞き、痛みを知ったということ、神さまがあなたがたとともに行動するということを告げています。

 私たちは、神さまの居場所がわかればいいのだがとか、神さまに働いてもらうために方法がわかるといいと考えるかもしれません。金の子牛でだめならば、何をつくればいいのか、何をささればいいのか、どのように働きかければ神さまは、ここにいてくれて、自分の不安を解消させてくれるのか。どうすれば夢がかなえられのか。私が幸福になるように神さまにお願いするには、どのような手順を踏めばいいのかとあれこれ考えるかもしれません。

 しかし私たちは思い違いをしてはなりません。私たちの苦しみを見、私たちの叫びを聞き、私たちの思いを知られる神さまみずからが、すでに私たちのところに近づき、私たちのために行動を開始しておられるのです。私たちは、それを知って、そのような神さまがこれからも私たちを見守っていてくださる信じることができるだけです。神さまを知り、信じるということは、神さまが私たちとともにいてくださることを受け入れ、それにふさわしく歩み、やがて大きな実りがもたらされるということを待ち望むということです。


教会の礼拝

教会は、見えない神様が乗っていると思われた金の子牛ではありません。教会のどこかに、人間の作った金の子牛があるのでもありません。私たちが神に出会うことができるのは、日曜日の礼拝の時間に限定されるのではありません。そういう場所が必要だから教会がつくられたのでも、礼拝という時間が設定されたのでもありません。

 神さまは、いつも、いかなる場所でも、私たちとともにいてくださる方です。でも私たちは忙しい日々の歩みの中でそのことを忘れてしまいます。それを思い起こし、感謝し、神さまのみわざをたたえるのが、礼拝という場です。

 日曜日の礼拝は、いつも神さまが私たちを見守ってくださっていること、いつでも、いかなる場所でもともにいてくださることを確認し、感謝をささげるところです。また今後もともにいることができますようにと祈る場所です。そして神の国を仰ぎみながら、神の国をめざして新たな一歩を歩み始める場所です。

 日常生活を離れて教会の礼拝に参加しながら、私たちは、過ぎ去った日々の生活の中で、神さまの見守りがあったことを覚え、感謝する者となりましょう。また今後の日々の生活の中で、それぞれが豊かな収穫を、愛の実を実らせることができるようにと祈りつつ、神の国に属する者として歩む者となりましょう。



祈ります:

主なる神さま、
あなたはいつも、私たちを見守っていてくださいます。
あなたは、過去の過ぎ去った日々にも、私たちとともにいてくださいました。
あなたは、今後も、どのような事態に遭遇しようとも、私たちとともにいてくださいます。
しかし私たちはそのことを忘れて、
あなたがどこにおられるのかわからなくなり、不安にかられます。
あなたを自分の手の中に収めようとし、自分に都合のいい金の子牛をつくりあげます。
でも、私たちの思いや力をはるかに越えて、あなたこそが力に満ちた方であることを覚えることができますように。
日々ともにいてくださるあなたを日々受け入れ、あなたにふさわしく歩み、あなたの大きなみわざが成し遂げられることを待ち望むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います
アーメン



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