2011.8.14

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「神との対話」

村椿嘉信

詩編139,1-10; エフェソの信徒への手紙3,14-19

旧約聖書:詩編139,1-10

【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】
主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え
あまりにも高くて到達できない。
どこに行けば
あなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも
見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
あなたはそこにもいまし
御手をもってわたしを導き
右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

新約聖書:エフェソの信徒への手紙3,14-19

こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

<知る、理解する>
相手が人間の場合:

 エフェソの信徒への手紙3章18、19節に、「知る」とか「理解する」という言葉がでてきます。神さまやキリストを知る、あるいは、神さまやキリストの愛を知るということがどういうことなのかを今朝は聖書から学びたいと思います。

 相手を「知る」、あるいは「理解する」ということは私たち人間どうしの場合でもむずかしいことです。まして、神様を知ることは、それ以上に難しいことです。

 今朝は、人間どうしが理解し合うことの難しさがどこにあるのかをまず考えたいと思います。その上で、人間が神さまを理解する難しさを学びたいと思います。

 牧師をしていますとたくさんの人たちからいろいろな相談を受けることがあります。中には結婚の相談を受けたり、また離婚の相談を受けることもあります。人と人とが、相手を知り、お互いのことを理解し合うことにも、さまざまなケースがあります。

 たとえば、幼なじみで、子どものころからよく知り合っている二人が結婚する場合があります。でもその場合に、幼なじみであるがゆえに相手のことをよく知っている、何でもわかっている‥‥という思い込みで理解しようとし、かえって誤解してしまうことがあります。

 またそれとは違うケースで、ある時に何らかのきっかけで出会い、急に親しくなり、極めて短時間のうちに結婚する人たちもいます。そんなに短い時間で、お互いに理解し合えるのだろうかと首をかしげることがありますが、それでうまくいく場合もあります。結局は、時間の問題ではなく、お互いが向き合い、理解し合おうとすることが大切なのだと思います。

 そのような姿勢がなくて、うまく行かなくなる場合もあります。結婚式を済ませ、かなり早い時期に、知らなかった面を見て、こんなはずではなかったと、離婚に至る場合もあります。

 離婚をするにしても、短期間で離婚の結論が出てくることもあれば、お互いに長い間、悩んで、またそれぞれが苦しんで、やっと離婚という場合もあります。

 また、人生の秋を迎えて、やっと相手のよさに気づかされたという話を聞くこともあります。あるいは相手が亡くなってから、初めて、相手のよさに気づいたという話も聞いたことがあります。「相手が亡くなってから、相手のよさに気づいても、遅すぎる!」と言いたくもなりますが、人生をふりかえった時に、ともに歩んできた人の大切さに後から気づかされるということは、実際にはよくあるのではないかと思います。

 このように考えてみますと、お互いに理解し合えないまま、相手の気持がわからないままに、私たちは、ともに歩んでいることが多いのかもしれません。

 このことは、結婚している場合だけでなく、人と人とにおける、お互いの交わりについても同じことが言えます。

 ところで私たちは、自分も相手も、時間の流れとともに、考え方や生き方が変わることがあります。いい意味で、いい方向に変わるのであれば、それを私たちは「成長」と呼ぶことができます。お互いに理解し合い、お互いに相手を高めあい、ともに成長しつつ歩むことができればよいのですが、現実には、私たちがこの世の影響を受けることによって、あるいは自分だけの利益を求めることによって、成長ではなく、悪い方向に変わってしまうこともあります。

 私たちは、心を開き、対話しながら歩むことによって、お互いに理解を深め合い力を合わせ、ともに支え合って歩むことができるようになります。「順境」、「逆境」という言葉があります。人生にはものごとがうまくいく時ばかりでなく、思いどおりに行かず、苦労ばかりが襲って来るように思える時があります。でもどのような場合でも、私たちは人に向かって心を開き、対話しながら歩むときに、それを乗り越えていく力が与えられます。もし、困難なときに、心を閉ざし、相手と対話しないのであれば、理解してもらえないので、ともに歩むことができなくなります。

相手が神さまの場合:

 さて相手が神さまの場合も、私たちは、神さまに心を開き、神さまと対話しなければなりません。神さまに向き合い、ともに歩むことによって、神さまの思いを知り、神さまを理解し、さらにその理解を深めることができます。でも相手が神さまの場合は、2つの点で大きな違いがあります。

 第1は、私たちが神さまを知るようになる前から、神さまは私たちのことを知っていてくださるという点です。また私たちが神さまのことを知り得るのはほんのわずかのことにすぎませんが、神さまは私たちのすべてを知っておられます。たとえ私たちが心を閉ざしても、神さまは私たちの心の奥底にあるものを見ておられます。私たちが自分の思いを言葉にして語らなくても、私たちの思いを理解していてくださいます。神さまは、私たちの表面を見ておられるのではなく、私たちを知り尽くしておられます。人間どうしではこうはいきませんから、このような意味においては、相手が人間の場合よりも、神さまとともに歩むほうが楽だと言えるかもしれません。

 でも第2に、神さまの知恵や力は、人間の知恵や力をはるかに越えており、神さまのことを知り尽くすなどということはとうていできません。その意味では、相手が人間である場合とくらべて、神さまを理解することがはるかに難しい、いやそもそも人間には理解できない、たとえわずかな部分といえども知ることなどできないのです。

 神さまを知り、理解するためには、私たちはただ神さまの働きかけに応じるしかありません。神さまの働きかけが自分にとって何を意味するのかを理解しようとし、一つひとつ理解していくしかありません。神さまがその時々に、何を知らせてくださるのか、何を語りかけておられるのかを、その都度、考え、理解を深めていくしかありません。

 さきほどお読みしました詩編139編にはこう書かれています。まず1節から5節までにこうあります。

1:主よ、あなたはわたしを究め
 わたしを知っておられる。
2:座るのも立つのも知り
 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
3:歩くのも伏すのも見分け
 わたしの道にことごとく通じておられる。
4:わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
 主よ、あなたはすべてを知っておられる。
5:前からも後ろからもわたしを囲み
 御手をわたしの上に置いていてくださる。

 まさにここに書かれているように、神さまは、私たちのことをすべて知っておられます。私たちが自分の思いを伝えようとして、言葉で表現するよりも前に、私たちの思いを知ってくださいます。

 これに対して、私たち人間のほうは、神さまを理解することができません。6節にこうあります。

6:その驚くべき知識はわたしを超え
 あまりにも高くて到達できない。

 エフェソの信徒への手紙3章19節には、「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになる」という言葉があります。「人間の知識をはるかに超える」ということは、人間が「知ることはできない」、人間が「理解することはできない」ということです。それなのになぜ「知ることができる」のか、「理解することができるようになる」のかというと、それは神さまが、私たちともに歩んでいて、その都度、私たちに明らかにしてくださるるからです。聖書に書かれていることが私たちにとってどういうことを意味するのか、神さまはどのようなお方なのかを、神さまが私たちに明らかにしてくださるのであって、その神さまからの働きを受けて、私たちは理解することができるようになるのです。

最後に

 そのために私たちは、心を神さまに向け、神さまの働きかけに応じる者となり、神さまからの語りかけに耳を傾けなければなりません。

 注意しなければならないことは、決して私たち自身の力によって、神さまについて、キリストのみわざについて、知ることができるのではないということです。私たちの知識をはるかに超えるのですから、すでに述べましたように人間の能力によって理解することはできないのです。私たちは、ただ神さまからの働きかけをとおして理解することができるだけです。

 私たちは、神さまからの働きかけの中で、「神さまは自分にいのちを与えてくれている、このような賜物をあたえてくれている、このような道を備えてくださったのだ、このような人と出会わせてくださったのだ、このような信仰の交わりを与えてくださったのだ‥‥」と知ることができるのです。そしてそのことによって、神さまの愛、キリストの愛の、広さ、長さ、高さ、深さを知ることができるのです。

 しかも私たちは、自分ひとりでなく、さまざまな人たちと力を合わせることによって、神さまの働きかけに応じ、神さまからの語りかけに耳を傾けることができます。それぞれがそれぞれの歩みの中で、自分はこういうことを知った、別のある人は別のあることを知ったということを、持ち合うことによってより深く知ることができるようになるのです。日々の生活の中において、神さまはいろいろな形でさまざまに働きかけています。神さまの愛の広さ、長さ、高さ、深さについて、それぞれが一生の間に知ることのできことは、ほんの一部でしかありません。でも私たちの知識をはるかに超えることについて、人と人との関わりの中で人の中にあってこそ、また、人と人の力を合わせることによって、私たちは少しずつ、理解を深めていくことができるのです。

 日々の生活の中で、人と共に歩む中で、聖書に耳を傾けながら、祈りながら、神さまの働きかけに応じてながら、神さまと対話することを学び、神さまをより深く知る者となって歩みましょう。



祈ります:

天の主なる神さま、
あなたは私たちを究め、知っておられます。
私たちが何も語らないうちに、私たちの思いを理解してくださいます。
あなたの知恵は、私たちの知恵を越え、
あまりに高くて、到達することができません。
私たちの知識をはるかに越えるあなたの思い、主イエス・キリストの愛を、
知る者とさせてください。
イエス・キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるか、
私たちの思いを越えるあなたの愛の深さを
理解する者とさせてください。
主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン

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