2011.6.26

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「新しい命に生きる」

廣石 望

エレミヤ書31,31-34; ローマの信徒への手紙6,1-12

I

 震災から100日以上がたちました。この間、政府による復興は遅れがちですが、国の内外から、たくさんの暖かい支援の手が差し伸べられました。そんな中、テレビCMで「日本は強い国」というメッセージが繰り返し流されました。この国の「強さ」とは、いったい何なのでしょうか。

 震災の被害に「へこたれない」精神的な強さというなら分かります。でも「経済」大国、「技術」立国あるいは「消費」大国という意味の強さであるなら、そしてそのような社会システムを再建することが「復旧」の中身であるなら、それは私たちの歩むべき道ではもはやないと感じます。 むしろ「新しい国」になるのがよいと思います。地方を犠牲にして都市が繁栄するのではなく、どの地域に住む人も幸せを感じられる社会に。技術万能の神話を棄てて、自然の力の前に謙虚な社会に。そして「もっともっと」生産し、「もっともっと」消費したあげくに大量に廃棄物を吐き出す社会を脱して、エネルギー生産を含めて今あるものを大切に使う節約型の社会へと私たちは転換すべきです。それが子どもたち、そのまた子どもたちのためにも、きっとよいと思います。

 しかしどうすれば、この転換は実現できるでしょうか。私たちにその力があるでしょうか。――聖書によれば、人は「罪」にとらわれた存在です。この世界の富を自己利益のために独占したいという衝動から、私たちは自由でありません。エデンの園にあった一本の木からだけは「食べてはいけない」と神が禁じたという果実は、何か特別な果物というより、むしろ被造物全体の尊厳のしるしです。そして人間は自分の欲望を満たすためなら、他の被造物の尊厳を、いけないと知っていながら平気で傷つけるのです(創世記3章を参照)。

 つまり転換の力は、私たち自身からは来ない。キリスト教信仰は、私を変える力はキリストを通して神から来る。キリストへの信仰を介して、人は神から革新の力を受けとると教えてきました。使徒パウロが「新しい命に生きる」ことについて語る言葉に、耳を傾けてみましょう。

II

 冒頭でパウロは、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と奇妙な問いを立てて、即座に「決してそうではない」と否定します。この発言は、直前の文脈で「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れた」(5,20)とあるのを受けています。罪と恵みは、原因と結果の関係にはありません。罪が原因となって、結果として恵みが生じるわけではありません。恵みは無根拠です。それゆえ恵みを増すための「手段」として、罪を用いることも不可能なのでしょう。パウロ自身は、「罪に死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と言います。

 「罪に死ぬ」とは、パウロの個人史に照らせば、いわゆる回心の体験と関係があります。回心以前の彼は、厳格なファリサイ派のユダヤ教徒として、律法の細則を遵守することに努力を傾けました。それが自分を証明することだったからです。しかしこの宗教的な向上心と自尊心は、たまたま十字架につけられたキリストと出会ったときに砕け散りました。自らの能力と業績に基礎をおく生き方が、じっさいには優越感と劣等感の間でゆれうごき、他者との絆を断ち切り、結局は「罪」を作りだす生き方であるという認識が、彼に開けたのだろうと思います。

 私たち自身に即して考えるならば、「罪に死ぬ」とは、自然界に存在するものを自分のための所有や操作、そして消費の対象ないし資源として利用しつくして、その尊厳を破壊するという生き方が根源的に行き詰まり、にっちもさっちもいかなくなる状態のことではないでしょうか。

III

 続いてパウロは死から生への転換、罪から恵みへの転換を、原始キリスト教が入信儀礼として用いた洗礼のシンボリズムを手がかりに説明します。

 洗礼は水を用いた儀礼ですが、パウロはそれを〈死と再生〉という図式に当てはめて解釈しています。つまり水に沈められることは、キリストの死に向けて沈められることであり、私たちはキリストと同様に死んで埋葬されたのだ、と彼は言います。そしてそれは、キリストが父なる神の栄光を通して死者たちから起こされたのと同様に、私たちもまた「新しい命に生きるように」なるためであると。新共同訳が「新しい命に生きる」と訳している箇所のギリシア語原文は、「命の新しさにあって歩む」です。生きることの質が、根源的に新しくされることを意味していると思います。

 パウロの時代、死と再生のシンボリズムをもつ宗教――いわゆる古代密儀宗教――がたくさん存在しました。それらの宗教を知っている人に、パウロの説明は理解し易いものだったと思います。それでも彼の発言の特徴は、キリストの死と復活が、神話的な英雄や女神の話とは違い、歴史的な人物であるナザレのイエスとその運命に関係している点にあります。 イエスの死と復活は、パウロたちにとって過去に生じた未来とでもいうべきできごとです。このできごとが私たちの命を新しいものにし、古い生き方を本当に古いものにするのです。「命の新しさにあって歩む」とは、そのような意味であると思います。

IV

 このことをパウロは逆の側面から、「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため」である、と言います。「滅ぼされ」と訳された箇所の原語は、「無効にされ」「効力を発揮しないようにされ」という意味です。罪を生み出してきた従来の自分や他者そして世界との関わり方が、もはや通用しなくなったと読めば、とても分かりやすいと感じます。現代日本の技術の粋を集めた堤防が無残に砕け散り、原子力発電所が死をまき散らしている今となっては、私たちの従来のあり方は、すでに無効宣言が下されていると感じられてなりません。

 しかしそれですべてが終ったわけではありません。復活の希望があるからです。「死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことはない」。キリストは「神に対して生きている」。だから私たちもまた、「罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスにあって、神に対して生きている」と考えようではないか、とパウロが言うとおりです。キリスト教信仰をもつとは、これまでの生の続きを生きることとは違います。それは大きな断絶を意味します。しかしそれは単なる断絶ではありません。死を通り抜けてでも、新しい一歩を踏み出すことを意味します。

V

 「命の新しさに歩む」というパウロの表現が、具体的に何を意味しうるかについて探るために、私が勤めている大学にこの春に入学されたばかりの学生さんが書いたエッセイをご紹介します。 彼女は福島県の出身です。今回の震災で、ご家族は無事でしたが、たくさんの友人・知人を亡くされました。

 幼い子どもたちのいるご家族は、原発のそばに住んでいたため、着の身着のままで避難しなければなりませんでした。ご一家は福島市を経由して、一週間かけてついに新潟県まで逃げたそうです。初めのうちは絶望して下を向いていたけれど、道中同じ被災者同士で励ましあううちに、だんだん前を見ることができるようになり、「あれをしよう」「これをしよう」と思えるようになったそうです。それでも、「思うだけで実行に移すことはとうてい無理だった」と彼女は述懐しています。――パウロによれば「体の死」とは、これまでの生き方がとつぜん不可能にされるできごとです。彼女もまた、極めて個人的な体験であると同時に、日本の社会全体のあり方が作り出した「罪」によってもたらされた死を経験したのだと思います。

 ところでご一家は、避難先の新潟県で見知らぬ女性からパンを分けていただいたそうです。次のような言葉とともに――「ここのパンは美味しいのよ。少しだけど食べてね。大変だけど、負けずに頑張るのよ」。

 この何気ないできごとは、彼女にとって大きな体験でした。――「このときほど、人の言葉が相手に与える影響の大きさを実感したことはなかった。今まで、いかに気にせず生きてきたかと、とても恥ずかしく感じられた。言葉を発することは人間だけに与えられた、最高の贈り物である。何気ない一言で相手を癒すことができるのなら、このおばさんのように、相手の立場に立って言葉を発することができるなら、もっと人間らしく、もっと心の優しい人間になれると肌で感じた」。

 絶望的な逃亡の中で、裸にされた人間が本当に必要としているのは、優しさと真実な言葉です。目の前の人が必要としている真実な言葉を語ること――それが私たちにとっても新しい命に生きること、命の新しさにあって歩むことの不可欠な第一歩であると思います。



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