2011.4.24

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「ひとりではない」

村椿 嘉信

ゼカリヤ書10,8-12; ヨハネによる福音書16,31-33

テキスト(旧約):ゼカリヤ書10章8−12節

わたしは彼らを贖い、口笛を吹いて集める。彼らはかつてのように再び多くなる。わたしは彼らを諸国の間にまき散らしたが、遠い国にあっても彼らはわたしに心を留め、その子らと共に生き続け、帰って来る。わたしは彼らをエジプトの地から帰らせ、アッシリアから呼び集め、ギレアドとレバノンの地に来させる。それらも彼らには十分ではないだろう。彼らは苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ。ナイルの深みはすべて干上がり、アッシリアの高ぶりは引き降ろされ、エジプトの王笏は失われる。わたしは主にあって彼らに力を与える。彼らは御名において歩み続けると主は言われる。

テキスト(新約):ヨハネによる福音16章31−33節

イエスはお答えになった。
「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」

 

十字架の苦しみ:

 イエスは地上で苦難の道を歩まれました。その歩みはどのようなものだったのでしょうか。イエスは十字架で苦しまれました。その苦しみはどのようなものだったのでしょうか。

 旅をしてまわると、履き物がすりへり、足が痛くなるという経験をすることがあります。そういう痛みをイエスは経験したと思われます。またイエスは捕らえられ、鞭打たれ、十字架にかけられ、そして息を引き取られました。その痛み、苦しみは、私たちの想像をはるかに超えるものだったと思われます。

 でもイエスをとらえた苦しみは、それだけではありませんでした。十字架で、イエスは、「わが神、わが神、なぜあなたは私を苦しめるのですか」とは言いませんでした。何と叫んだかは、すでに皆さんはご存じだと思います。「わが神、わが神、なぜあはたはわたしを見捨てられたのですか」とイエスは十字架で叫ばれたのです。

 この言葉からイエスの十字架上での苦しみを考えてみることができます。「見捨てる」という言葉がここにあります。イエスは十字架上で、身体的な苦しみばかりではく、見捨てられるという苦しみを経験したのです。

 あるいは私たちは、ここで別のいくつかの言葉を思い起こすことができます。たとえば「引き渡す」という言葉が聖書の中で使われています。イエスは引き渡されました。ここにはイエスが裏切られたという意味が含まれています。ユダはイエスを祭司長、律法学者、長老たちに引き渡しました。つまりユダはこのことをとおして、イエスを裏切りました。あるは私たちは、ペトロがイエスのことを「知らない」と言ったことを思い起こすことができます。ペトロはイエスとの関係を否定しました。ペトロはイエスを無視しました。そしてイエスを置いて、逃げ出しました。ユダもペトロもイエスを「見捨てた」のです。

 さきほどお読みしましたヨハネによる福音書16章31節には、「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」という言葉がありました。「あなたがた、つまり弟子たちが、時の権力者によって、そして権力者がもたらす恐怖によって、散らされ、追い払われて、自分の家に逃げ帰ってしまう、そしてイエスをひとりきりにする時が来る、いやすでに来ている」とイエスは語りました。

 十字架の上で、イエスはひとりだったのです。イエスとともに十字架にかけられることになった二人の人物を除いて‥‥。この二人はたまたまその時に、イエスの道連れとなったのです。でもイエスと歩みをともにしようとして、そこにいたのではありませんでした。イエスを歩みをともにして当然と思われた人たちは、誰もそこにいなかったのです。

 どんなに身体的な苦しみを受けても、でも自分のことを理解してくれている人たちがいる、どこかに応援してくれている人たちがいるとしたら、私たちはその苦しみに耐え抜くこともできるかもしれません。私は拷問は受けたことはないので、わかったかのようにお話することは避けたいと思いますが、それでも、窮地に立たされたり疲れ果てたりしても、いろいろな人たちの思いに支えられて困難を乗り越えるという経験をしたことが何度もあります。

 でもイエスの場合は、イエスを歓迎して迎えた群衆たちも「イエスを十字架にかけよ」と叫びました。中立な、客観的な判断ができるはずのピラトも、イエスを十字架にかけるために「引き渡し」ました。弟子の一人は、イエスを「裏切り」ました。もう一人の弟子は、イエスを「知らない」と言いました。また、他の弟子たちは、イエスが捕らえられ、十字架にかけられるのを「見て、見ぬふり」をしました。イエスの苦しみを「無視し」ました。弟子たちは、危険が迫ると「安全な場所」に逃げ帰り、おそらく鍵をして、「引きこもり」ました。そして「息をこらしていた」のです。弟子たちは一人残らずイエスを「見捨てた」のです。

 イエスはこのことを十字架の上で問題にしました。そして神さまに、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問いました。天の父なる神に向かって、つまりまことの親にむかって、叫んだのです。親が子どもを見捨てることは、私たちの経験でも、まずはあり得ないことです。でもイエスは、親に向かって叫んだのです。「自分をなぜこんな目に遭わせるのですか」「自分をなぜ見捨てられたのですか」。

 イエスは、本来ならペトロに対して「お前はなぜ私を知らないといったのか」、ユダに対して「なぜ裏切ったのか」、弟子たちに対して「なぜわたしを見捨てたのか」と問うべきであったのかもしれません。でもその人たちはすでにイエスを見捨てて、隠れ家に閉じこもってしまいました。イエスは、ひとりきりの状態に置かれ、神に向かって「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだのです。

 

 

神は見捨てない:

 神さまは、この時、イエスの叫びに沈黙を守ったのかもしれません。あるいは神さまは何らかの仕方でイエスに直接、語りかけたのかもしれません。しかしいずれにせよ、大きなあわれみのうちにイエスを見守り、両手を開いて、イエスを迎える姿勢をとられたのではないでしょうか。

 放蕩息子のたとえ話があります。イエスは放蕩息子のたとえ話の中で、親にとってたとえ放蕩息子であったとしても、どれだけ子どもが大切かということを描いています。自分の好き勝手なことをし、すべての財産を失い、ぼろぼろになって父のもとに帰ろうとした放蕩息子を、父親は、遠くから見つけて、憐れに思い、走り寄って、首を抱き、接吻しました。そして父親は言いました。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15章11節以下を参照のこと)。たとえ放蕩息子であっても、息子の帰りを心から迎えるのが神さまだと、イエスはたとえの中で描きました。まったく背景が異なる二つの話を結びつけることはよくないことかもしれませんが、神さまがどんな思いでイエスの十字架を見守っていたかを考えるひとつの手がかりになるのではないかと思います。

 先ほどのヨハネの16章31節の言葉には続きがあります。イエスは「(弟子たちが)追い散らされ、自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と述べたあとで、「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と語っています。イエスは、見捨てられた状況の中にあっても、自分がひとりではない、神さまがともにいてくださることを確信していたのだということがわかります。

 

 

復活:

 人々から見捨てられ、ひとりきりになっても、神さまはイエスをひとりにされませんでした。神さまはイエスとともにおられました。

 しかし十字架の上では、まだそのことは隠されていました。それが明らかにされたのは、復活の朝を迎えてからのことでした。

 十字架の朝に、明らかにされたこと、それは十字架で終わりではなかったのだということ、イエスはひとりきりではいなかったのだということ、まさに弟子たちからも、人々からも見捨てられるという苦しみの中でも、神さまはイエスを見捨てられないということでした。

 そしてさらに大切なことは、そのイエスが、復活され、自分を見捨てた人たちのもとに来られ、生きる力を、苦難に打ち勝つ勇気を与えてくださるということです。

 私たちも、日々、弟子たちのようにイエスを見捨てているのではないでしょうか。でも神さまはそのイエスを見捨てません。そしてそのイエスは私たちを見捨てられません。イエスは神さまによってよみがえり、私たちにこう語ってくださるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。

 これはまさに奇跡にほかなりません。「私たちが見捨て、苦しみを与えるイエス」が、私たちに「苦しみに打ち勝つ勇気」を与えてくれるのです。この「勇気」は、そもそも神さまから与えられるものです。繰り返しになりますが、私たちが見捨てても、神さまはイエスを見捨てられない。しかもイエスを見捨てるような私たちを、神さまは見捨てられない。神さまは、そのような私たちとともにいてくださるのです。だからこそ、私たちがこの世で見捨てられていても、あるいは私たちが人を平気で見捨てたり、無視したりする者であったとしても、神さまが勇気を与えてくださるのです。だから私たちは神さまのもとで変えられてで、神と和解し、人々と平和な交わりを築くことができるのです。

 先週、『受難週のための聖書日課』という冊子をお渡ししました。表紙に十字架の写真を入れました。この十字架は、ケルンでドイツ人の牧師からいただいたものを、私が写真でとってパソコン用に加工したものです。ケルンには、このようなレリーフ(浮き彫り細工)を造る古い工房があって、薄暗くて、でもかなり広い場所に、さまざまな作品が無造作に置かれていました。古い時代のものから最近の作品までかなりの数のものが並べられていて、この十字架もおそらくその工房に所属する職人のひとりが作成したものと思われます。

 十字架は「苦しみ」を象徴するものです。しかしこの職人は、この十字架を、むしろ「交わり」の象徴としてつくったと思われます。この十字架には、ドイツ語で、上の部分に「私は」、左に「いる」、右に「ともに」、下に「あなたがたと」というように刻まれています。「あなたがたのところに」とも訳せますが、私は日本語としては「ともに」という言葉がふさわしいと思っているので、そう訳しています。

 この十字架は、苦しみを負う人たち、あるいは苦しむことの多いこの世に生きる人たちを無条件で招いています。その苦しみのただ中で、イエスは、私たちに手をさしのべ、パンを与えてくださっています。このイエスによって、私たちは心を落ち着かせ、平安を得ることができます。この世で暴風雨が起ころうとも、イエスのもとには平和があります。イエスのもとにはあらゆる人たちが招かれ、パンを食べ、すこやかに過ごすことができます。そしてさらに、イエスは私たちに、苦しみに打ち勝つ力、ともに生きる勇気を与えてくださいます。

 十字架そのものは、決して、交わりの象徴ではありません。どうしてそれが交わりの象徴となるのでしょうか。それは十字架で人間の苦しみを味わい、私たちとともにいてくださるイエスが、復活されたからです。そして苦しみの中にあるあらゆる人たちを招いてくださるからです。そのイエスは、私たちが生きる苦しみの中にあっても、私たちに苦しみに打ち勝つ勇気を与えてくださいます。だから私たちは苦しみの中にあっても、私たちのために苦しんでくださるイエスのもとで神に出会い、同じように苦悩に満ちた世界の中で歩むさまざまな人たちとともに生きることができるようになるのです。そして苦しみの中にあっても、神の国の交わりを目指して歩むことができるようになるのです。これこそが、復活の朝に起きた奇跡であり、その奇跡へと私たちも招かれています。

 

祈り:

いのちの力に満ちた神さま、
弟子たちや群衆、また当時の社会の主立った人たちは、イエスを見捨てました。
しかしあなたはイエスをひとりきりにはされませんでした。
あなたはイエスとともにおられました。
そのイエスは、私たちがイエスを見捨てたのに、私たちをひとりきりにはされません。
イエスは私たちとともにいてくださいます。
イエスは常に、私たちを招き、私たちの歩みを支えてくださいます。
どんなに困難な状況にあっても、苦しみを越えて生きる勇気を与えてください。
あなたに出会い、あなたのもとで多くの人たちと支え合って、力強く、喜びをもって生きることができますように。
この復活祭に、人を生かすあなたの圧倒的な力を覚え、心から感謝します。
そのいのちの力のもとへ私たちを導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン

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