2011.2.20

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「一致の根拠」

村椿嘉信

イザヤ書43,16-20; ヨハネによる福音書4,16-26

テキスト(旧約):イザヤ書43章16-20節

主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。  初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。

テキスト(新約):ヨハネによる福音書4章16-26節

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。
女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。
イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。
女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

過去とどう関わるのか:

 私たちは、過去とどう向き合うべきなのでしょうか。

 現代の日本という国も、そして日本の教会も、過去と向き合うことができていないと私は思います。今まで、過去に向き合うという経験を十分にしてこなかった、あるいは一部の人たちだけがしてきて、国家として、あるいは教団として、過去に向き合うということがどういうことかの合意が得られていない、いやそれどころか、過去に向き合うということがどういうことかの議論さえ十分になされていない‥‥というのが現状ではないでしょうか。そういう中で、日本基督教団のいわゆる「戦争責任告白」も、十分に理解され、生かされていない‥‥というのが現状ではないかと思います。みなさんはどう思われるでしょうか。

 さてそういう現状の中で、今朝は、イザヤ書の43章16節以下をとりあげました。「なぜこんな箇所を選んだのか」と叱られてしまいそうな内容が書かれている部分ですが、私は、このような箇所が理解できないと、旧約の預言者が、またイエスが、過去とどう関わるべきだと語っているのかがまったく理解されなくなると思います。そこでこの箇所を選びました。

 特にイザヤ書43章の18節を読んでください。ここに、「初めからのことを思い出すな、昔のことを思いめぐらすな」とあります。この箇所は、誤解を招きやすい箇所です。この箇所を誤解することなく理解できれば、私たちは、「過去と向き合う」ということがどういうことなのか、さらにはっきりとすると思います。


過去の栄光に酔いしれるな、過去の自分の営為を讃美するな:

 預言者イザヤは、なぜ、過去を思い巡らすなと語ったのでしょうか。その当時の状況をていねいに見ていかなければならないのかもしれませんが、先ほどお読みした部分だけでもある程度のことがわかります。

 16節、17節にこうあります。

 「主はこう言われる」。その主なる神とは、「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方」のことです。

 その主なる神が、「初からことを思い出すな、昔のことを思い起こすな」と言われるのだとイザヤは告げています。

 つまり、エジプトで奴隷のように抑圧され搾取されたイスラエルの民を、主なる神が導いてくださった。その際に、海の中に通路を切り開き、エジプトの軍隊からいのちを守ってくださった。エジプトの戦車や馬、軍隊を、まさに灯心のように、ランプの心に灯されていた火が消えるように、消し去ってくださった。イザヤは、ここでそのことを思い起こし、感謝することが間違っていると言おうとしたのではありません。そのことを思い起こし、自分の偉業を称えることが、そして今もまた、同じように何もかもうまくいくだろうと考えることはおかしい!と言おうとしたのです。

 イザヤがここで警告していることは、ひとことでいえば、過去の栄光に酔いしれていてはならないということです。あるいは、過去の自分の営みを讃美するために過去を思い起こすなということです。

 「自分は、あるいは自分たちは、これだけの努力をしてきた、これだけの努力を積み重ねてきた。だから自分ひとりの力で、現在の自分がある‥‥」というように過去を思い起こすことは危険です。さらに、「自分はこれだけ立派に歩んできたから、神さまもそれに応じて、自分によいものをもたらしてくれた。神さまが助けてくれたのは、そもそも自分が立派に歩でいたからである。そして今も立派に歩んでいる。だから神さまは祝福してくれるはずだ。そして自分は何もかもうまくいくはずだ‥‥」と考えることはさらに危険です。

 自分を讃美するために、自分に都合よく、自分ひとりの考えで過去を解釈し、そのことで安心する、そして自分の周りのすべてが自分のためにあるかのように考えることに対して、神さまは預言者の口を通して、警告しているのです。

 神さまが祝福してくれたこと、神さまが導いてくれたこと、それは、自分がそれに値しないのに、神さまが恵みにおいてしてくださったことではないでしょうか。それなのに、まさに自分ひとりの力で自分がうまくやってこれたと考えること、さらに自分の立派な行いを見て、神さまがそれに応じてくれたのだと考えること、それはまさに自己正当化であり、これこそイザヤの警告したことです。


過去に逆もどりするな、過去の闇に引きずられるな:

 このように過去を思い起こすことが、過去の栄光に酔いしれ、自己讃美で終わってしまうことがあります。イザヤはこれに対して警告しています。ところでイザヤの警告には、もうひとつの理由があります。イザヤは、43章の19節以下で「未来にどう関わるか」を問題にしていますが、過去にばかり目を向け、過去のできごとだけを学ぼうとすると、過去の価値観にとらわれ、過去に逆もどりしたり、過去のできごとを繰り返すだけになってしまいます。

 過去の歴史をひもとくと、「人間は争ってばかりいるではないか、人類の何千年の歴史は、戦争の歴史ではなかったか」と思うことがあります。歴史を学ぶということは、ある意味で、戦争の歴史を学ぶようだとも言えます。そして科学技術が発展し、一人ひとりが教養を身につけるようになると、戦争はなくなるどころか、さらに大がかりな、そして残酷なものになりました。歴史的なできごとを背景に、「戦争は必要悪であり、無くすことはできない。だから戦争を無くすのではなく、戦争があってもいかに生き延びるかを学ばなければならない‥‥」と考える人たちがいます。

 私自身、たとえば沖縄の歴史を学べば学ぶほど、何をしたところで、この現実を変えることはできないと思うことがあります。まして一人で、あるいは少人数で何をどうもがこうとも、大勢に影響を与えるなどということは不可能だという思いにさせられてしまうことがあります。

 イザヤはそのうような仕方で、過去をふり返ること、思い起こすことにも警告を発しています。過去をふり返ることで、過去のできごとに振りまわされ、未来への希望を失ってしまうことへの警告だと言えます。さきほどの第1の指摘が、過去の努力を自分に都合よく評価してうぬぼれることに対する警告であるのに対して、この第2の指摘は、過去のできごとを思い起こし、あきらめたり、絶望することに対する警告です。


未来に向かう:預言者の思考

 それでは私たちはどのように過去に向かったらよいのでしょうか。すでにふれたことでもありますが、預言者の思考の特長は、過去を起点に現在を考えるということろにあるのではなく、未来に目を向け、そこから現在をとらえたところにあります。未来を考え、そしてその未来から現在を理解し、現在を未来につなげていくためにこそ、過去に向かうことが大切なことです。

 イザヤは、先ほどの続きの19節でこう語っています。

 「見よ、新しいことをわたしは行う。

 今や、それは芽生えている。

 あなたたちはそれを悟らないのか。

 わたしは荒れ野に道を敷き、

 砂漠に大河を流れさせる」

 私たちは、このような未来を信じているでしょうか。未来を信じるとは、神さまが新しいことを行うことを信じること、神さまが新しい可能性、私たちの過去の歩みからは想像もつかないような新しい可能性をもたらすことを信じることです。この神さまに導かれて、私たちは未来に積極的に関わることができるのです。

 そしてその未来に向かって歩むためにこと、私たちは過去を学ぶ必要があります。過去を学ぶということは、過去の視点で現在を見るのでも、現在の視点で過去をふり返るのでもありません。預言者は、艘意味では過去をふり返る必要はないと言いました。神さまが切り開いてくださる新しい未来を信じ、その未来に向かって歩むために、私たちは過去をふりかえらなければならないのです。

 日本のプロテスタント教会は、去年、プロテスタント宣教150年を祝いました。それは、残念なことに、教会が今日に至るまでどれだけの努力を積み重ねてきたかを評価するだけで終わってしまったように思います。プロテスタントの諸教会は、ともに歩み、神の宣教のわざを果たすために、過去の栄光に酔いしれるのではなく、未来へ向けて歩み出さなければならないはずです。その場合に忘れてはならないことは、過去の負の歴史を忘れないようにすることではなかったでしょうか。日本基督教団の場合、「戦争責任告白」(「第2次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」1969年)を踏まえて150年の検証をすること、それなしには、過去の歩みを未来へつなげることはできないはずなのに、「戦責告白」がかえって教会を混乱させてしまったという指摘だけで終わってしまったのは、とても残念なことでした。混乱があったとしても、そこで問われている問題に向き合い、未来への歩みに結びつけていかなえれば、その混乱を乗り越えてひとつになることはできないのではないでしょうか。

 さきほどお読みしましたもうひとつの箇所のヨハネによる福音書4章16節には、イエスの言葉が記されています。イエスのいた当時、エルサレムに神殿がありました。ところがサマリヤのゲリジム山にも神殿がありました。ユダヤ教の中に、いくつもの分裂がありましたが、神殿が異なるということは、両者の間に決定的な断絶があることを意味しました。「どこで礼拝すべきか」という問いについて、過去をふり返りながら論争すると、エルサレムを主張する人にはそれなりの根拠が、またゲリジム山を主張する人にはそれなりの根拠が存在し、両者の溝はいつまでたっても埋まることはありません。でもイエスは、未来について述べ、「エルサレムでもサマリアでもないところで、神を礼拝する時が来る」と語りました。そしてそれは、決して遠い未来の話ではなく、私たちが望めさえすれば、その未来に、今、ここで、関わることができると指摘しました。

 私たちは、日本の教会のことを考える場合も、この東アジアという地域でどのように歩むべきかと考える場合も、私たちがともに歩むことができるようになる未来が来ることを信じ、その未来を目指して、今、ここで、歩み続けることが大切なことです。そして、そのためにこそ過去と関わる必要があります。私たちそれぞれの人生を考える場合も同じです。神さまがもたらしてくださる新しい可能性に向かって、神さまが切り開いてくださる未来に向かって、希望を持って、私たちは歩むものとなりましょう。それぞれ面子とかプライドとかにこだわるのではなく、謝罪すべき点は謝罪し、克服すべき点は克服しながら、未来を築くことが大切なことです。



神さま、
あなたが天と地を新しくしてくださいます。
あなたが新しい可能性をもたらしてくださいます。
どうか私たちが未来に目を向けることができますように。
そして過去の栄光に酔いしれるのでも、
過去に逆もどりするのでも、
過去を思い起こして絶望するのでもなく、
未来のために過去の教訓を生かすことができるよう導いてください。
ともに歩むことができるよう、平和に至ることができるよう、どんな時にも、前向きに歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン


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