2010.11.07

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「愛、喜び、平和」

村椿 嘉信

エレミヤ書8,20-23; ガラテヤの信徒への手紙5,16-26

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わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 

<収穫の時>に何を刈り取るのか:

 さきほどお読みしましたガラテヤの信徒への手紙5章22節に「霊の結ぶ実」という言葉がありました。私たちはどのような「実」を結ぼうとしているのでしょうか。

 私たちは、今、収穫の秋を迎えています。私たちの人生は、収穫の秋が訪れるときに、いったい「何」を刈り取ることになるのでしょうか。

 聖書に書かれているできごとの舞台となっているパレスチナ地方は、夏と冬の2つの季節しかないと言われています。収穫の時は、春でもあり、秋でもあります。しかし「収穫の時」をもってひとつのサイクルの終わりと考えることには古くからの習慣でした。

 その後、キリスト教が、四季のはっきりした地域に広まるにつれ、1年の数え方を、「冬」にはじまり、「春」、「夏」と続き、「秋」で終わると考える習慣が定着しました。私たちの人生も「冬」に始まると考えられます。「いのちあるもの」は、初めは冬の雪の中に閉ざされています。でも雪の中に、「いのちあるもの」が存在するのは事実であり、それはやがて成長します。その「いのちあるもの」が、「春」になると、芽を出し、根を張り、それぞれの個性を発揮するようになります。そして「夏」の盛りの時を迎えます。そして最後に迎えるのが「秋」の収穫の時です。

 私たちは、どのような人生の「秋」を迎えるのでしょうか。私たちの人生の「終わり」は、どんな時となるのでしょうか。このことは、私たちがどのような実を結ぼうとするかにかかっています。

 

収穫が得られない:

 ところで「私たちがどのような収穫の時を迎えるのか」ということは、旧約聖書の中でも度々、問題になりました。エレミヤ書の8章の13節には、「ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない」と書かれています。ぶどうも、いちじくも、何の実もむすばなかった‥‥と言われています。さらに、「葉はしおれた」とあります。そして「わたしの与えたものは、彼らから失われていた」とあります。「神は、ぶどうやいちじくを実らせようと考え、水や肥料を与え、太陽を昇らせて見守ってきたが、それは何にもならなかった‥‥」ということです。13節の前半には、「わたしは彼らを集めようとした」と書かれていますが、これは、主なる神が「愛情を注ぎ、必要なものを与え、成長を心待ちにしていた人たち」を呼び集めようとしたということです。しかし、そのような人たちは誰もいなかったのです。

 エレミヤは、ここでその当時の人々のいったい何を見て、「ぶどうの木にぶどうはない」と述べたのでしょうか。

 エレミヤが問題にしている第1の点は、その当時の人々、特に指導的な立場にある知識人が、神の言葉をあなどり、偽りを語ったことです。

 8章8節にこうあります。

「どうしてお前たちは言えようか。
『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。
まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、
それを偽りとした」。

 書記というのは、議事録をとったり、報告書を書くだけでなく、読み書きができ、公的な文書を作成したり、計画書をつくったりする人たちのことで、王家に仕える官僚も含まれます。彼らは、「自分たちこそは、主の律法に精通しており、それゆえに自分たちこそ賢者である」と主張しました7。しかしエレミヤは、自分を賢い者だと自称する人たちこそが、真実を追い求めようとせず、偽っているのだと指摘しました。

 彼らは、自己正当化のために、律法を引き合いに出します。しかしそれは9節にあるように、「主の言葉をあなどっている」ことにほかなりません。箴言の1章7節に、「主を畏れることは、知恵の初めである」という言葉があります。神を知り、人間の知恵では及ばない神の領域があると知ること、人間の知恵はそもそも神から与えられたものであり、神によって生かされてこそ人間の知恵は力を持つということを知ることが大切なことです。神の言葉をあなどっていては、人間の知恵は生かされません。人間がどんなに正しいと思うことでも、神の前では正しくないことは、いくらでもあります。そのことを理解しないと、自分の知恵、自分の知識、自分の技術のみに固執して、大きな誤りを犯すようになります。

 エレミヤが問題にしている第2の点は、その当時の人々が、10節にあるように、「身分の低い者から高い者に至るまで、すべて、利をむさぼっていた」、つまり自分の利益ばかりを追い求めていたことです。自分のことばかりを考える、自己中心的な人たちばかりだったということです。

 人々が自分のことばかり考えるようになると、それぞれ孤立するようになります。すべての人たちが利益を得られるような経済的に豊かな時代ならともかく、今日の日本の社会のように経済的に行き詰まると、ますます相手のことを考えなくなり、ともに生きることが不可能になります。

 日本はまさに、そういう時代になっているとは言えないでしょうか。貧しくても、少ない食料をみんなで分かち合うことはできます。しかし、もし経済的な危機が訪れて、みんなが自分の利益ばかりを追い求めるようになれば、いずれは奪い合いにまで発展するのではないでしょうか。つまり、少しでもいい生活ができるように、人よりいいポジションにつこうと競争を始め、さらにエスカレートして、人を追い落としたり、物を奪い合う社会になるのではないでしょうか。

 エレミヤが問題にしている第3の点は、11節にあるように、その当時の人々が、「おとめなるわが民の破滅を、手軽に治療して、『平和』がないのに『平和、平和』と言う」ことでした。これもまさに現代の日本にあてはまるかもしれません。

 つい先日、日本基督教団の総会があり、全国から総会議員が集まりましたが、岩国基地をかかえる西中国教区から、「軍事基地の問題について教団として声明文を出すように」という議案が出され、審議されました。その時、ある別の教区の議員が反対であることを表明し、「日本は戦後、平和だった。その平和は、日本という国家がもたらしているのだから、その国家を批判するような文章を表明するということはあってはならない。そもそもこういう声明文を出すことじたいおかしい」と言いました。耳を疑いたくなるような発言でした。声明文の文章がわかりにくいとか、表現がきつすぎるというのであれば、いくらでも訂正すればいいのですが、そのような発言が相次ぎ、議案は否決されました。

 軍事基地を抱える地域の住民が、基地に対して不安を感じたり、批判的になったりするのは当然のことだと思います。「発言すべきではない」と言って相手の発言を封じるのではなく、まずは相手の立場に立ち、相手の思いを知るべきです。また、日本は本当に「平和」だと言えるのでしょうか。日本にある軍事基地から、艦船や軍用機が戦場へと向かっています。また国内にもさまざまな矛盾があり、実際に社会的な問題で死に追いやられていく人たちもいます。

日本は、周辺諸国とともに歩むために、また国内においてもそれぞれの地域にいる住民がともに歩むために、軍事基地や暴力のない平和な世界の実現を目指さなければならないはずです。しかしそのようなことはまるで必要ないかのように、日本は「平和」なのだと主張することにどんな意味があるのでしょうか。

 今、日本では尖閣諸島周辺のことが話題になっていますが、南の島々やその周辺の海域は、もともと誰のものだったかと言えば、それはその地元の住民たちのものだったのです。それを二つの大国が国境線を引き、自国の利益のために奪い合っていることじたい、おかしなことです。

 エレミヤはその当時の人々の問題点を、「身分の低い者から高い者に至るまで、すべて、利をむさぼっている」というように指摘し、こういう時代において、「ぶどうの木にぶどうは実らず、いちじくの木にいちじくは実らない」と指摘しています。ここに、「身分の低い者から高い者に至るまで」という言葉がありますが、エレミヤは、当時の社会の中にあって、特に身分の高い者、指導的な立場にある人たちのことを問題にしました。12節に、「彼ら」とあるのは、指導的な立場にある人たちです。その12節に、「彼ら、つまり指導的な立場にある人たちは、忌むべきことをし、恥をさらしているのに、恥ずかしいとは思わず、その時代の多くの人々から嘲られているのに気づかない」と書かれています。そして「人々が倒れ、罰せられるときは、その指導的立場にある人たちも倒れ、罰せられる」と述べられています。

 

<霊の結ぶ実>とは:

 さてそのような収穫のない時代の中にあって、私たちは、どのような「実」を結ぶことができるのでしょうか。私たちが結ぶべき「実」とは、どのようなものなのでしょうか。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙5章22,23節で、

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」

と述べ、私たちが追い求めるべき9つの課題を明らかにしています。

 そのすぐあとの24節には、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」とあります。私たちは、イエスの招きに応じて、イエスに導かれ、支えられながら歩もうとしています。しかしまだまだ、地上的な肉の欲情や欲望に縛られて生きていることが多いかもしれません。エレミヤ書に照らし合わせて考えれば、私たちは、まだ真実を真実とせず、偽りの中に生きているのだと思います。私たちはどこかで、それぞれ自分の利益ばかりを求めてしまっているのではないでしょうか。ほんとうの平和を目指して歩まず、その日その日の都合のいい生き方をしているのではないでしょうか……。でも25節にあるように、私たちに不十分な点がたくさんあっても、霊の導きに従って生きているのであれば、霊の導きによって前進することができるのです。パウロはだからこそ、「霊の導きによって前進しよう」と述べているのです。

 信仰者として生きるということは、霊の導きによって前進することを意味します。それは決して、真実を覆い隠したり、偽ったりすることではありません。また、決して自分ひとりの利益を追い求めることではありません。表面的な解決や、形ばかりの平和で満足するのではなく、武器を必要としない、愛に満ちた平和、人と人との和解を追い求めることです。

 信仰者として生きるということは、さらに言うなら、霊の導きによって、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を追い求めて、日々、前進することです。私たちは、霊の結ぶ実を追い求めて、日々、歩んでいるでしょうか。やがて迎える収穫の秋に備えて、私たちは何を刈り取ろうと準備しているのでしょうか。

 <愛>が生み出す人と人との関係は、けっして、その場で終わってしまうものではありません。パウロはコリントの信徒への第1の手紙13章の8節で、「愛は決して滅びない」と語っていますが、愛は,滅びることなく、むしろ愛は愛を生み出し、連鎖して、いつまでも残っていくものです。私たちは、自分の利益を追い求め、財産を蓄え、収穫の時に多くの財産を前にして自己満足するような歩みを望むのでしょうか。それとも<愛に満ちた人と人との関係>こそ、私たちの財産であり、収穫だと考えるのでしょうか。

 私たちは、収穫のときに、これもしておけばよかった、あれもしておけばよかったと言って、後悔したり、悲しんだりするのでしょうか。それとも「これでよかった」といえる<喜び>を刈り取るのでしょうか。

 まだこの世で戦争が続くとしても、「平和」への一歩、あるいは二歩でも、三歩でも、<平和>に向かって前進できたことを私たちは、収穫と見なすのでしょうか。

 パウロは、私たちが結ぶことのできる実、私たちが結ぶべき実は、さらに「寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると語っています。たくさん言葉が並ぶと、私たちは、それぞれの言葉がどう関係づけられるのかわからなくなってしまいますが、またパウロがどうしてここでこの9つの言葉を並べたのか、なかなか理解できませんが、これらの言葉をイエスの生き方に当てはめてみると、理解しやすくなると思います。イエスは、まさに神の愛に生き、人々を愛した方です。悲しい現実があったとしても常に喜びをもって、平和をつくりだし、寛容さを示し、相手に親切にし、善意を行い、誠実に生き、柔和で、節制、つまり傲慢になることなく、謙虚に歩まれたのが、主イエスの歩みでした。

 

<霊の結ぶ実>を刈り入れる:

 しかし、そのような歩みを、実際に私たちはできるのかと不安になります。イエスのように、どのような時にも、相手から裏切られても愛を持って生きるとか、悲しみの中でも喜ぶとか、平和をつくりだす者となるとか、そんな生き方が、自分にできるのか‥‥という思いにとらわれます。中には、そういう言葉を聞くだけで、嫌気がさしてしまう人もいるかもしれません。

 しかしパウロは、「霊の導きに従って前進しましょう」と語っています。パウロは、何か大変な努力をしなさいと語っているのではなく、「霊の導きに従えばそれでいいのだ」と語っているのです。霊の導きに従う時に、それぞれ自分をほんとうに生かすことができるようになり、また愛をもってともに生きることができるというのです。でも、やはり愛をもってとか、喜んでとか、平和をつくりだすとかは、大変のことのように思えます。どうしたらよいのでしょうか。

 今朝、エレミヤから学んだことは、第1に、「私たちの知恵によってではなく、神の言葉によって歩む」ということでした。第2に、「自分の利益を追い求めない」ということでした。第3に、形式的、表面的な平和を求めるのではなく、偽らずに現実の破局を認めながら、「ほんとうの平和を追い求める」ということでした。そういう姿勢があれば、私たちは、すべてを霊の導きに任せて歩むことができるようになります。パウロは、先ほどの箇所の最後の部分で、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」と書いています。自分にうぬぼれていたら、私たちは霊の導きに自分を任せることができなくなってしまいます。挑み合ったり、ねたみ合ったりしていれば、ともに生きることができなくなってしまいます。み言葉に耳を傾け、お互いの言葉に耳を傾け合いながら歩むなら、また、ねたんだり、挑み合ったりすることがないなら、私たちは、それぞれ自分を生かしつつ、ともに歩むことが可能になるでしょう。

 

主なる神さま、
霊の導きに従って前進させてください。
み言葉に聞き従い、喜びを持って、
また平和を追い求めて歩むことができますように。
私たちがともに、愛、喜び、平和‥‥の種をまき、
愛、喜び、平和‥‥の果実を刈り取ることができるよう
お導きください。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン



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