2010.7.11

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「被造世界の解放」

廣石 望

アモス書8,9-13; ローマ8,18-23

I

今日のテキストである『ローマの信徒への手紙』8章は、現代のキリスト教が地球環境の問題を考えるための古典的な箇所のひとつになりました。その中でパウロは、被造世界が「滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかる」という希望をもち、このゆえに「今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(21-22節)と言います。

自然界は「うめいて」いる――現代、この発言はまったくアクチュアルです。かつて自然は人間にとって、恩恵と脅威を同時に意味したと思います。しかし、やがては征服すべき領域と見なされるようになり、ついには人間の幸福に仕える資源として、また放っておいても自ずと回復するゴミ捨て場として扱われるようになりました。その結果が、現在私たちが目の当たりにしている地球規模の環境破壊です。

 パウロのテキストでは、自然は人格化されて「共にうめき」、解放のときすなわち「神の子たちが現れるのを」待っています。「神の子たち」とはまっとうな人間のこと、地球環境に責任を感じて行動する人間のことと思われてなりません。今日そのことの重要性は、どんなに強調しても強調しすぎることはありません。

 しかし今日は少し回り道をして、古代ローマ帝国が「自然」をどう表象したかに照らし合わせながら、パウロの言葉にアプローチしたいと思います。彼の手紙の宛て先は、帝都ローマに住んでいたキリスト教徒たちでした。そのローマ帝国は、自分たちの支配の正当性を宣伝するために、「自然」というイメージを最大限に利用したのです。

 

II

 ローマはギリシア文化を継承しました。そのひとつに、文明の「衰退史観」とでもいうべき歴史理解があります。かつては「黄金」時代があった。大地は自ずと食べ物を生み出し、暴力はなく、人類は贅沢に幸福に暮らした。しかし「銀」の時代になると、人は神を敬わず、高慢がはびこるようになり、やがて「青銅」時代になると戦争が起こり、ついに「鉄」の時代には人間の浪費と悪行が頂点に達した。――つまり自分たちは衰退した末の時代、私たちに分かり易い表現を使えば「末法の世」を生きているという理解です。

 こうした理解を踏まえて、ローマ帝国の権力者たちは〈野蛮人どもの不敬によって失われたかつての黄金時代を、ローマは敬神と軍事的勝利によって回復する〉というプロパガンダを行いました。ウェルギリウス『第四牧歌』に、次のような一節があります。

 

この栄光の時代は、まさにあなたが執政官の間に
始まり、偉大なる月々が最初の歩みを進めるだろう。
たとえわれらの罪の痕跡がなお幾らか残っていても、あなたの導きで
消し去られ、大地は絶え間ない恐怖から解き放たれよう。
あの子はやがて、神々と生を分かち合い、・・・
父親ゆずりの武勇の徳で、世界を平和に統治するだろう。
 さて子供よ、あなたに与える最初の小さな贈り物は、耕されぬ
大地がいたる所に生え出でさせる、蔦のさすらう木蔦とバッカル、
微笑むアカンサスに混じるコロカシア。
雄山羊は乳房を乳でいっぱいに満たして、ひとりでに
家に帰り、牛や馬は大きな獅子を恐がらず、
揺りかごからは、あなたを魅惑する花々がおのずと咲き乱れるだろう。
蛇は死に絶え、人を欺く毒草も
消え失せ、あちこちにアッシュリアの香木が生えてこよう。

(ウェルギリウス『牧歌/農耕詩』小川正廣訳、岩波書店、2004年より)

 

 この詩は、ある子どもの誕生とともに、平和な黄金時代が還ってくると歌います。この子が正確に誰であるかをめぐっては、キリストのことだという中世の解釈を含めて、その解釈はじつに多様です。しかし今は、それはローマ皇帝アウグストゥスであるという理解があったことが重要です。軍事力によって達成されるローマの平和は、自然界のパラダイス状態の回復とワンセットになっています。

 同じウェルギリウスが書いた『アエネーイス』(VI,789-794)では、そのことがもっとはっきりしています。

 

こちらがカエサルで、他もみなイウールスの
血を引き、大いなる天の蒼穹のもとへ行く定めだ。
この勇士、こちらにいるのが、お前も何度か約束を聞いていよう、
アウグストゥス・カエサルだ。神の子にして、築き上げるは黄金に輝く
世紀の復活、これをラティウムに、かつてサトゥルヌスが統治した
田野に取り戻す。

(ウェルギリウス『アエネーイス』岡道男・高橋宏幸訳、岩波書店、2001年より)

 

ここでは優れた血統である勇士アウグストゥスが「黄金時代」を回復させるということが、高らかに歌われています。そしてじっさい彼は、紀元前17年、彗星が現れたのを利用して「母なる大地の豊穣」を祝う式典を、新時代の幕開けとして執り行いました。

 これを受けて紀元前9年には、皇帝アウグストゥスの戦勝を記念して、都市ローマの軍神マルスの野に、「アウグストゥスの平和の祭壇: Ara pacis Augustae」が奉献されました。その東壁に、有名な「母なる大地」のレリーフがあります。

さまざまな女神の特性を混合させたこの女性像はローマ帝国の象徴と思われます。膝には二人の子どもとたくさんの果物、前面には牛と羊が描かれており、ローマを取り囲む人と自然の豊かさが強調されています。両脇には空からの風と海からの風を強調する女性が二人。それぞれが繁栄するローマを見つめています。じっさいよりも大きく描かれた植物と平和に暮らす動物たちの姿は、超自然的な豊かさを表現しています。つまりここに描かれているのは、回復された黄金時代とそれを保証するローマ帝国、リニューアルされた自然と豊かな生活です。

 パウロと同時代の皇帝ネロについても、同様に詩人カルプルニウス・シクルスが、「憂いなき平和の黄金時代が、再び生まれた。そして優しきテミスが、染みも錆びもない大地に帰ってきた。幸福な時代が、まだ母の腕にいるときに戦いに勝利した者、汝〔ネロ〕によって統治されている。彼自らが統治するとき・・・平和が現れるであろう」と歌っています(『牧歌』I,33-39)。


III

 このような「自然」を利用したローマ帝国の自己礼賛と比較すると、パウロの発言の大きな特徴が、すぐに目に飛び込んできます。

 ローマ帝国は現在の繁栄と豊穣さを誇っていますが、パウロは「現在の苦しみ」を「将来私たちに現されるはずの栄光」と対比させます。同様に「被造物は虚無に服している」とも(18節)。つまり人も自然も、決して「黄金時代」を生きているわけではないという認識です。

じっさい帝都ローマに暮らすキリスト教徒は、東方世界から移住した、奴隷や解放奴隷を含む下層階級の人々が中心でした。皇帝クラウディスの時代には、おそらくユダヤ教会堂を中心に異邦人伝道を進めるキリスト教徒とユダヤ教徒の間の紛争が原因となって、都からユダヤ人すべてが追放されるという事件もありました。ユダヤ人のキリスト教徒は、パウロが書簡を書いた時期には、ようやく都に戻ってきて異邦人キリスト教徒との共生を模索しつつあったと思います。つまり都市ローマのキリスト教徒はけっして順風満帆の暮らしを送っていたわけではありません。

他方で、都市ローマが自然の産物で溢れていたのは帝国の各地、とりわけ属州から農産物を税として徴収したからです。ローマのキリスト教徒たちは、「被造物は虚無に服している」というパウロの発言を聞いて、ローマ帝国がアダムの罪責――楽園の産物を自らの利益のために独占的に消費するという罪――を大規模なフォーマットで再び活性化させていると受けとめたのではないでしょうか。

いずれにせよパウロの見るところ、ローマが誇る「黄金時代」のプロパガンダは幻想に過ぎません。人も自然も繁栄してなどいない、安らいでなどいない。じっさいにそこにあるのは抑圧と収奪なのです。

 

IV

 では、希望はどこにあるでしょうか? パウロは言います、「被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(19節)。また「霊の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と(23節)。

 ローマ帝国は敬神と異民族に対する軍事的征服が、黄金時代を回復するための手段と見なし、その成功を祝って壮麗な祭儀を執り行いました。皇帝は、いわばそのシンボルです。これに対してパウロは、ローマ皇帝に代表される帝国の軍事力と支配機構ではなく、福音の力が世界を変えると信じています。また都市ローマの片隅で暮している小さなキリスト教徒の群れが、最初の「神の子ら」の出現に連なってゆくと信じています。

 ローマ皇帝と都市ローマのキリスト教徒を区別するものは何でしょうか? それは前者が繁栄と豊穣さを勝ち誇った姿で享受しているのに対して、後者が「うめいて」いること、被造物全体といっしょに呻いていることです。少し後に、「霊自らが、言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださる」(26節)という発言が現れます。つまり神の霊自らが「うめく」ことによって、被造世界とキリスト者を結び合わせます。これが「将来私たちに現されるはずの栄光」の、現在における目に見えるかたちなのです。

 

V

私たちの社会で、「自然」はどのように表象されるでしょうか? 「癒し」を与えてくれるもの、保護されるべきものとされながらも、例えば観光資源というかたちで、やはり基本的には私たちの消費の対象にされているように感じます。

これに対してパウロがいう「うめく」というモードは、弱いものと「共に苦しむ compassion」という点にポイントがあります。人間どうしの関係においても、共感共苦の感受性がどれほど大切なものであるかは、今さら言うまでもありません。同じことが自然環境に対しても言える。私たちが「神の子ら」であることは、自然界もまた神の被造物として、私たちと同じ尊厳をもつ存在なのだという認識を含んでいるのだと思います。



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