2010.5.30

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「神の定め・神の道」

村上 伸

イザヤ書45,18-19;ローマの信徒への手紙11,33-36

 ペンテコステの直後の日曜日である今日は、「三位一体主日」と呼ばれている。聖霊降臨によって「父なる神」・「御子イエス・キリスト」・「聖霊」の三つが揃い、しかもその三つが一体であることが明らかになったからである。

だが、「三位一体」というのは中々分かりにくい。ユダヤ教徒やイスラム教徒は、「神は唯一である」と固く信じるので、まるで神が三人いるかのように聞こえる「三位一体」には強く反対するが、同じような理由で「三位一体」に反対する人はキリスト教徒の中にもいる(ユニテリアン)。また、「三位一体」という概念は後の教会によって作られた教義で本来聖書にはない、ということも反対する理由として挙げられる。

しかし、それでは「三位一体」が聖書の信仰に反しているかというと、そうとも言えない。マタイ福音書28章19節では、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」という三位一体的な言い方で宣教が命じられる。また、コリントの信徒への手紙二 13章13節には、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように」という祝祷がある。これも三位一体的だ。

このように、新約聖書には「三位一体」という明確な概念はないが、そのような「考え方」は確かに存在する。ローマの信徒への手紙11章36節もそれを暗示していると考えられている。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」。今日は、この33-36節をテキストとして説教したい。

ローマの信徒への手紙の9〜11章のテーマは「ユダヤ人問題」である。「ユダヤ人問題」とは、神に選ばれた筈のイスラエル民族が頑なになって神に背き、「神に捨てられた」と言われても仕方がないような状態に陥っている、ということを指す。具体的には、ユダヤ教の最高指導部があの真実なイエスを十字架にかけて殺したことである。そのことを、パウロは指摘するのである。彼らは、「義の律法を追い求めていたのに、その律法に達せず」(9章31節)、「つまずきの石につまずいた」(同32節)。「その熱心さは、正しい認識に基づくものではなく」(10章2節)、「自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった」(同3節)、等々。

自分自身がかつてはそういった状態だったのだが、同胞のこのような現状を見る度に、パウロは「どうしてこんなことになったのか」と考え込まずにはいられず、深く苦しんだ。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(9章2節)と告白している通りである。

しかし、ここでパウロは考える。神はこの歴史的現実を放置しては置かれない。神は、この人類の悲劇的な歴史に介入して、そこで驚くべき御業を成し遂げた。すなわち、ユダヤ人の背信を、異邦人が信仰を受け入れるきっかけとした。「歴史のアイロニー」と言うべきか。「ユダヤ人の罪によって異邦人に救いがもたらされる」(11章11節)とパウロが言うのはそのことだ。そして、それはやがてユダヤ人の救いとなって戻って来るであろう。だから、パウロは感嘆せずにおれないのである。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(同33節)。

「ユダヤ人問題」をこのように考えて来た後で、パウロはこの長大な箇所を、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(同36節)という三位一体的な頌栄で締めくくる。三位一体論は、歴史の中で働く神への賛美告白から生まれたのである。

 

先週のペンテコステ礼拝でKさんが洗礼を受けられたことは、私たちにとって大きな喜びであった。同じ日、岡崎から四人の兄弟姉妹が礼拝に出席してくれたことも嬉しいことであった。その内の一人は、しばらく前までは重病の床にあり、皆で心配していたのだが、その後処方された薬が劇的に効いて、遠路この教会の礼拝に参加できるまで回復したのであった。もちろん、これは主治医の適切な治療や薬の効能のお蔭だが、それらすべてを含めて、私は、見えざる神の力(聖霊)が背後に働いていたと信じる。感謝せずにはいられない。そのことを思い返しながら私は、神は単に超越的であるだけではなく、私たちの世界の現実の中に入って来て、そこで驚くべき御業を成し遂げられる、ということをあらためて自分に言い聞かせた。

モーセがホレブの山で神に出会ったとき、神は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」(出エジプト記3章7-8節)と言われた。このように、神は歴史に介入する。聖書の神は、人間の世界のさまざまな不正・不義・苦難と対決し、そこで苦しんでいる人々の悲痛な叫びを聞き、そして、彼らをその苦しみと絶望から解放する神である。

モーセがその神に名を尋ねたとき、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3,14)と答えた。マルチン・ブーバーによれば、これは「あなたがいる所に、わたしも必ずいる」という意味だという。つまり、「あなたが苦しんでいる所には、わたしも共にいる。わたしはあなたの苦しみを決して見過ごしにはしない」ということだ。私たちをみなし児として放置せず、私たちの苦しみを共に担い、やがては私たちを解放する方として、神は歴史の中で自らを現わす。正義と公平を求め・実現する神として、解放の神として、父なる神・御子イエス・キリスト・聖霊という三つの在り方において、自らを啓示するのである。



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