2010.3.21

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「涙を流しながら」

村上 伸

イザヤ書53,1-12;ヘブライ5,7-9

 先ず、7節に注目する。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ…」。この言葉は、イエスがゲッセマネの園で祈られた場面を思い起こさせる。

 マルコ福音書14章によると、最後の夜、死が間近に迫ったのを覚悟したイエスは祈るためにオリーブ山に登り、弟子の中からペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて「ゲッセマネという所」(32節)に入った。その時、「イエスは、ひどく恐れてもだえ始め」(33節)、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(34節)と言われた。同じ場面を、ルカは「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22章44節)と描写している。最初に引用したヘブライ書5章7節は、これとは少し表現が違うが、内容は同じである。

 カトリックの神学者ヨーハン・バプティスト・メッツは、聖書には「人類の苦しみの記憶」(メモリア・パッシオーニス)が書き留められていると言ったが、同感である。預言者たち、イザヤ書53章の「主の僕」、ヨブ、その他、苦しみを受けた人々を抜きにして聖書を理解することはできない。そして、その頂点は、言うまでもなくイエスの十字架の苦しみである。四つの福音書は、イエスの受難物語を核として書かれたし、その記述は詳細を極める。

 この「苦しみの記憶」に最大の敬意を払った人に、17世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカル(1623〜1662)がいる。この人は、元々数学や物理学に非凡な才能を持つ科学者であった。16歳の時に当時の数学の先端を行く「円錐曲線論」という本を著し、19歳で計算機を発明し、23歳になると真空に関する実験と研究を行った。このようにして、彼はいくつかの原理や定理に名を残している。例えば、日本でも今は気圧を示すのに「ヘクトパスカル」という単位を用いているが、これも彼の研究と関係がある。

 そのパスカルが31歳のとき、ある宗教的体験を通して回心した。それ以来、彼は深いキリスト教信仰に生きたのである。著述活動もキリスト教に関するものが中心になり、『キリスト教弁証論』を書くつもりで準備を進めていたが、残念なことに1662年、39歳の若さで死んだ。そのため、この企ては未完成のまま終わったが、そのための「下書き」や「覚書」が遺稿集として集められた。それが『パンセ』(瞑想録)である。前田陽一と由木康の流麗な訳で、日本語でも読めるようになっている。

 この中には、「人間は考える葦である」など、後に世界中で知られるようになったエスプリの利いた警句がちりばめられているが、中でも注目すべきは、イエスの苦しみについて書き遺された深い思索の跡である。パスカルが「苦しみの記憶」(メモリア・パッシオーニス)に最大の敬意を払った、と私が言うのはそのことである。言葉は断片的だが、読む者の心に深く響く。その内のいくつかを紹介しよう。

*イエスは、少なくともその三人の最愛の友に多少の慰めを求められる。しかし、彼らは眠っている。彼らが彼と共に暫く耐え忍ぶことを求められる。しかし、彼らはさして同情がないので、一瞬間も眠りに打ち克つことができず、彼を全くなおざりにして顧みない。こうしてイエスは、ただ独り神の怒りの前に取り残される。

*イエスはただ独り地上におられる。地上には彼の苦痛を感じてそれを分け合う者がないだけでなく、それを知る者もない。それを知っているのは、天と彼のみである。

*イエスが嘆かれたのは、このとき一度しかなかったと思う。だが、この時には、極度の苦しみにもはや堪えられないかのように嘆かれた。「私は悲しみのあまり死ぬほどである」。

*イエスは世の終わりまで苦悶されるであろう。その間、我々は眠ってはならない。

 さて、これらのパスカルの言葉を心の中に響かせながら、我々は再び今日のテキストに目を向けることにしよう。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(8節)。これはどういうことだろうか?

 このことについて、パスカルはこう書いている。「イエスは一度だけ祈られる。『この杯を過ぎ去らせて下さい』と。そして、なおも従順に、再び祈られる。『やむをえなければ、[この杯を]来たらせて下さい』と」

 従順とは、正しくこういうことではないか。我々は弱い人間だから、なるべく苦しみは避けたい。イエスでさえ、十字架の苦しみを前にしたとき、ひどく恐れてもだえ、「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」(マルコ14章35節)と祈った。

 しかし、苦しみには隠された意味がある。それは、我々には簡単には分からない。イザヤ書53章に書いてあるのもそういうことだ。苦悩する「主の僕」。その苦しみは「多くの民を驚かせた」(52章15節)。理解を絶していた。彼には「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好もしい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(2-3節)。このような苦しみに「意味」があるなどと、「誰が信じえようか」(53章1節)。

 だが、慈しみ深い神だけは、その隠された意味を知り給う。このことを、イエスは信じていた。だから、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14章36節)と祈ったのだ。こうして、イエスは自らの苦しみによって従順を学ばれた。このことが、「御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」(ヘブライ書5章9節)のである。

 だが、イザヤは、神だけが知っている苦しみの意味を知らされたのだ。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(11節)。



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