2009.11.15

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「霊の初穂」

廣石 望

詩編130編;ローマの信徒への手紙8,18-25

I

教会の暦では、アドヴェントから新しい一年が始まります。その直前の三つの主日は「終末」の名で呼ばれ、その二週目に当たる今日は「終末前主日」です。この季節、多くの教会では召天者を記念する礼拝がとりおこなわれます。私たちの教会では先週がそうでした。懐かしい方々の遺影を礼拝堂の前に飾り、ご遺族の方々といっしょに礼拝を守りました。

 死者たちに思いをよせるとき、無念さと感謝の入り混じった複雑な感情が胸を満たします。私たち自身がやがて過ぎ去ってゆく。メメント・モーリ(死を覚えよ)。私たちのいのちはとても儚い。同時に、一人ひとりの個別的な生の重みと、かけがえのなさを思います。誰もが他人に代わってもらうことのできない弱さや辛さ、そして秘密を抱えて生きたに違いないのです。それでも神の前にへりくだって、精一杯に生きることの素晴らしさを思います。

 私たちは皆が世間的にも成功した人生を生きるわけではありません。あんな時代にさえ、あんな国にさえ生まれなければよかったのにと思うこともあります。しかしその生ですらも尊い。だからある人が何を成し遂げて、何を後世に残したかという問いは、さほど重要ではありません。むしろ何を信じ、何に向かって、誰といっしょに時間を分かち合って生きたか、その希望のありかはどこにあったのか、ということの方がはるかに重要です。

 今日とりあげるパウロのテキストも、こうした人間の生の基本条件から出発しています。

II

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」とパウロは語ります(18節)。「現在の苦しみ」とは字義通りには「今の時のさまざまな受苦」という意味です。「受苦」というのは、避けようもなく我が身に降りかかってくるもののことですね。

 現代人にはいわゆる〈前向きの姿勢〉を重視して、自分が操作できることに集中することで現実を動かそうとする傾向があります。「自己実現」「ポジティヴ・シンキング」あるいは「勝ち組」といった言葉も流行しました。その背景にあるのは、自己責任のもとでの自由競争という状況です。企業で働く方々にとって、これはまさに日々の現実でしょう。しかし、こうした自力救済と競争主義の結合には、拭いがたい負の側面があります。核兵器による脅しあい、格差社会、そして環境破壊などが思い浮かびます。そのとき私たちは、自分が有限で儚い存在であることを忘れています。ともに生きるべき存在として、他者や自然との交流の中に自分が置かれていることを忘れて、それらを自らの快適さや未来の理想像などのエゴイスティックな妄想のために犠牲にしてもかまわないと考える――そこから負の連鎖が始まるように感じます。

 「被造物は虚無に服している」とパウロは言います(20節)。古代イスラエル人であった彼の念頭にあったのは、おそらく創世記の失楽園の物語です。禁令を破ったために楽園を追放されるアダムに向かって、ヤハウェはこう言いました、「大地はあなたのゆえに呪われるものとなった。あなたは生涯、労苦の中で食物を得ることになろう」(創世記3,17)。――「大地」すなわち被造物は、アダムの背きのために「呪われ」、呻いている。人間を自然から切り離し、自然を操作可能な資源と見なしてきた近現代人にすれば、いかにも古臭い神話的な自然観のように見えます。しかし日本人ならば「美しい」と感じる自然ですら、人の罪のゆえに呻いているという発想は、ここまで環境破壊が進んだ現在にあっては、たいへん貴重な洞察です。

III

 さて、パウロが生きた時代のユダヤ教には、黙示思想と呼ばれる潮流がありました。それによると、神の呪いのもとにある世界は、今や「年老いて」いるというのです。そして終わりに向かいつつあるこの世は、救いがたく罪深い。この罪の世界にあって義しく生きる人々にとっての希望は、「老いた」古い世界がまったく滅び去り、新しい世界にとって代わられることだと考えられたのです。

私たちの社会でも、〈年をとる〉ことは概して嫌われる傾向にあります。だから、じっさいよりも自分を若く見せる美容整形や、老化を遅らせる「アンチエージング」の技術などの商売が繁盛しています。やがて、〈あなたの老いたからだを、若いからだにごっそり入れ替えます〉という商売が登場するかもしれません。それと似たことが世界規模で生じるというのが、黙示思想にいう新しい世界のイメージです。

しかしパウロは、被造世界には「いつか滅びへの隷従から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかる」という「希望」があると言います(21節)。黙示思想の世界観とはまったく違いますね。しかもこの希望があればこそ、被造物は「すべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(22節)と。この世界は人の罪ゆえの「呪い」の下にありながらも、神の子らの自由という栄光に参与する希望をもって、人間といっしょに呻いている。なんと共感的で連帯的な自然のイメージでしょう!

こうした自然観の根底にあるのは、人間のいのちと自然のいのちを一続きのものと捉える感性、自分の苦しみや悲しみが自然の中に映し出されているのを感じる心性です。

IV

 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(19節)――「現れる」と訳されているのは「啓示」という言葉です。「神の子らの啓示」を被造物は待っている。「神の子ら」とは、例えば天使のような超人的な存在のことではありません。「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(23節)とあるとおり、それは今さまざまな弱さや苦しみの中にあるキリスト者、つまり私たちのことです。「霊の初穂」という表現は、キリストへの信仰を指しています。別の箇所で、パウロがこう言っているとおりです。

わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです(ガラテヤ2,20)。

 同時に「初穂」という表現は〈まだ実りにまでは達していないが、そのプロセスはすでに始まった〉という意味だと思います。私たちの今の中に「体の贖い」(23節)への確かな希望が始まった。「体」とは、五感をもって世界や他者と交流しつつ生きる私のことです。「体の贖い」とは人間の全人格的な解放、真のアダムとしての「神の子ら」の啓示を指します。キリストは「最後のアダム」(1コリント15,45)、つまり真のアダムとなることで、真の人間としてのあり方を示した。ならば被造世界は、なおいっそう「神の子らの啓示」を待ち焦がれていることでしょう。

 「私たちは、このような希望によって救われている」(24節)――私たちもまた、この希望を放棄することができません。軍事力の均衡などという危ういガラス細工のような平和はいらない。大海原のような広々とした平和がほしいです。この希望を私たちキリスト者がもたなくて、いったい誰がもつでしょう!



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