2009.9.6

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「善いサマリア人」

村上 伸

レビ記19,13-18; ルカ福音書10,25-37

8月27日から30日まで、私は「エバハルト・ベートゲ生誕100年記念シンポジウム」に参加していた。今朝は、その簡潔な報告から説教を始めたい。

先ず、ベートゲという人物についてざっと説明すると、彼はドイツ人の牧師で、ナチスに抵抗した神学者ボンヘッファーの弟子であった。やがて、フィンケンヴァルデ牧師研修所でボンヘッファーの助手として告白教会の若い牧師候補生たちの訓練に当たり、この仕事を通じて二人は無二の親友となった。ボンヘッファーの姪レナーテと結婚して親戚になったという事情もあって、戦後、故人の遺稿の大部分がベートゲの手元に集まった。これを基にして、彼はボンヘッファーの著作、特に『現代キリスト教倫理』や『獄中書簡集』を編集して世に出し、さらに1967年には1,000頁もの大著『ボンヘッファー伝』を書いた。従って、我々が今日ボンヘッファーの思想に接することができるのは、主としてこのベートゲのお陰なのである。

彼は数年前に天に召されたが、8月28日が生誕100年の記念日に当たるというので今回の企画が生まれた。ドイツ各地からはもちろん、オランダやアメリカ、日本などからも多数の研究者たちが集って口々にベートゲへの感謝を語り、それとの関連でボンヘッファーの今日的意義を検証したのである。ベートゲ夫人も出席して喜ばれたし、友人たちと再会を祝うことができた。真に幸せな時であった。

この三日間に15人が講演した。いずれも力のこもった話で、ベートゲとボンヘッファーの関係を一層明らかにしてくれた。例えば、『獄中書簡集』の中に収められた手紙の最も重要な部分は、この二人の間で繰り返された真剣な対話であるが、獄中のボンヘッファーが外にいるベートゲに対して常に本音で語りかけ、ベートゲもまた誠実にそれに応えている。ボンヘッファーの思想はこの対話によって純化され・深められ・発展していった、というのである。稀にみる友情であり、対話である!

さて、この対話から生まれたボンヘッファーの言葉に、次のようなものがある。「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つであろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」。今日におけるキリスト者の、あるいは教会の使命は要するにこの二つに尽きる、というのである。この簡単明瞭な定義は、シンポジウムの間、参加者によってしばしば引用された。この言葉が戦後の教会に対して決定的な影響を与えたことを示すものだ。我々の教会もまた、この二つを目標に歩んで来たし、今後もそう願っている。

ここで、今日の説教テキストである「善いサマリア人」の譬えに目を向けたい。

ここには一人の律法学者が登場して、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに問いかけている。この問いそのものは、真剣な問題だ。しかし、彼は「イエスを試そうとして」(25節)、いわば邪まな意図をもって質問している。本当にこの問いに相応しい態度とは言えない。イエスはそれを見抜いて、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26節)と反問した。旧約聖書を熟知するこの律法学者は、「待っていました」とばかりに二つの聖句をスラスラと引用する。すなわち、申命記6章5節「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、レビ記19章18節「隣人を自分のように愛しなさい」である。これは、旧約全体の核心部分だ。

これに対してイエスは「正しい答えだ」と認めた後で、それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)と言われた。このイエスの言葉は、律法学者の弱点を突いた。この人は、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」という重大問題について、真剣に祈りながら答えを求めているわけではない。だから、旧約聖書の最も重要な聖句を引用して言葉の上では「正しい答え」を示しているのに、その「正しさ」は実際の生き方にはなっていないのである。

何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか? これは我々すべての人間にとって極めて重要な問いである。このような問題について考えるとき、我々は祈るしかない。祈って、いと高き神からの答えを待つ以外に、どのような道があるだろうか? そして、心を込めて祈るときに初めて、我々は「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを「実行する」ように促される。そのことをイエスは指摘されたのだ。

だが、「実行する」とはどういうことだろうか? 30節以下のたとえ話は、そのことを教えている。この社会には、悩みや苦しみを抱えて生きている隣人がいる。その現実を直視すること、そこから目を背けないことが第一である。隣人愛を「実行する」ということは、差し当たり、この「見る」という小さな行為から始まる。祭司やレビ人が半殺しにされた人の現実の苦しみから目を逸らして「道の向こう側を通って行った」(31節)ようにではなく、このサマリア人のように眼を背けないで、誠実に「その人を見る」(33節)のである。これが第一歩である。それによって、次になすべきことが見えてくる。このサマリア人が「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(34節)ように。

週報のコラムに紹介したフリートナーは、産業革命に伴う社会の激変の中で苦しむ人間の現実を直視した人であった。彼は、社会のひずみが先ず犯罪や青少年の非行に現れるのを見た。そこで刑務所が犯罪の温床にならないように心を砕き、出所者の避難所を作り、そこで彼らを教育した。また、産業効率を優先する社会の中で見捨てられる老人・病人・子供たちを受け入れる場を作り、奉仕女のシステムを考え出してその仕事を支えた。彼は19世紀半ばの現実をしっかり見つめて、真剣に祈り、人々の間で正義を行ったのである。21世紀の今、我々は何を見、何をしようとするのか?



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