2009.8.23

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「神殿での祈り」

廣石 望

イザヤ書6,1-8;ルカ福音書18,9-14

I

今日のテキストである〈ファリサイ派の人と徴税人〉の譬えは、「例話」に分類されてきました。倫理的ないし宗教的なお手本あるいは反面教師を具体的に提示することで、「この人と同じようにしなさい」「間違ってもこのようなふるまいをしてはなりません」と教え諭す物語という意味です。

現行のルカ福音書の導入句も、そうした理解を促しているようです。イエスはこの譬えを、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語ったというのですから(9節)。結びにおかれた「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節後半)という一般化する教えが、これに対応しています。そのとき、登場人物であるファリサイ人は高慢さと自己欺瞞の否定的モデル、他方で徴税人は自らを神の前で低くする敬虔さのお手本になるのは見やすい道理です。ファリサイ人のように自惚れて他人を見下してはなりません、むしろ徴税人のように謙虚でありなさない、というわけです。

しかし、こうした理解はどれほど適切でしょうか。このファリサイ人ほどに他人を見下したように祈る人が、じっさいにいるでしょうか。他方で私たちは、この徴税人ほどシンプルに自分を罪人だとも普段は思っていません。さらにこの解釈は、譬えの舞台が「神殿」、登場人物が「ファリサイ人」と「徴税人」と特定されていることをほとんど考慮していません。そして最後に、「義とされて家に下っていったのは、この人〔徴税人〕であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)という譬えの語り手のコメントは、イエスの最初の聞き手たちには、おそらく意外な印象を残したと思います。

 

II

たいていのイエスの譬えは、ガリラヤの農村生活をとりあげます。家庭での労働、主人と奴隷の関係、あるいは村落共同体の中の社会的営みなどです。農民から見て、都会は家庭と村落の外側にありました。

しかしユダヤ人にも彼らの「都市」がひとつありました。「神の都」エルサレムです。そこにはユダヤ教で唯一のヤハウェ神殿がありました。神殿は神の霊が臨在する場所と信じられ、祭司団がカレンダーに合わせて礼拝や動物供儀をともなう祭儀を行っていました。年4回の巡礼祭、とりわけ過越祭には世界中からユダヤ人が巡礼してきました。世界中に散在するユダヤ人男性から神殿税が集められました。神殿はユダヤ教のアイデンティティーの象徴的な存在だったのです。――つまり神殿は、ガリラヤの民衆から見れば〈お上りさん〉が行く場所であると同時に、真のイスラエル人が誰であるかをはっきりさせる場所でした。

さて、登場人物であるファリサイ人と徴税人は、どのような人たちでしょうか。まずファリサイ派は、神殿でお勤めをする祭司に要求された清浄規定を拡大解釈することで、俗人も遵守するよう求めた宗教運動でした。その主要な担い手は、中小の諸都市の手工業者です。彼らは祭司ではありませんでしたが、祭司こそ真のイスラエルのモデルと見なして、一般民衆にも厳しい掟を守るよう求めました。他方で、律法の細目を日常生活の多様な場面に順応させようとさまざまな解釈を積み重ねました。つまり規範の先鋭化と日常生活への順応という、本来は相矛盾するものを結び合わせようとしたのです。十分の一税はあらゆる農産物に拡大され、清浄規定は手や家財を水洗いすることへと拡大され、安息日規定は実践可能な仕方で解釈されました。こうした解釈による辻褄あわせを、外部から「偽善」と貶めることは容易であったでしょう。イエス伝承にも、この傾向が見出されます。

他方で徴税人は、神殿税に代表される宗教税とは別枠の、いわゆる国税の徴収に末端で従事した人々です。国税には地税や人頭税の直接税と並んで、通行税に代表される間接税、さらに関税や軍隊税などがありましたが、徴税人が担当したのは通行税や市場税に代表される間接税であったと思われます。最終的には、国税はローマ帝国に支払われました。いずれの場合も、徴税請負の制度が利用されます。すなわち請負人は入札で競り落とした総額を一括して前払いします。その後は自ら雇った徴税人を使って、自分が支払った以上の金額を「税」と称して回収させたのです。とりわけローマに対する地税は、神だけがイスラエルの土地の正当な所有者だという〈土地の神学〉と衝突し、反ローマ納税拒否闘争が展開されました。ローマ人は最終的には軍事的手段で抵抗運動に対処しました。

都市エルサレムには、祭司貴族階級であるサドカイ派と、王族とそのとりまきであるヘロデ党がいました。祭司階級はトーラーの定めを強調することで、宗教税を手に入れることができました。ファリサイ派が十分の一税を重視したことは、サドカイ派の利益に適いました。ファリサイ派はエルサレムの最高法院に代表を送っています。他方でヘロデ党はローマ人に代わって国税を集めることで、ローマからその地位を保証されていたのです。

言うまでもないことですが、宗教税も国税も一般民衆が負担しました。なのにローマ帝国とイスラエルの貴族および王族は、税収入をめぐって争いました。ヘロデ党と神殿貴族は互いを挑発し、祭司階級の内部でも上級祭司は下級祭司を犠牲にしても利益を独り占めしようとしたことがあります。

――「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」(10節)というイエスの譬えの叙述の背後には、こうして、真のイスラエル人とは誰か、この土地の恵みを受ける真の継承者は誰なのかという緊張に満ちた問いがあります。この譬えは、倫理的なお手本と反面教師を提示するだけのものではありません。

 

III

二人の祈りを見ましょう。ファリサイ人の祈りは「感謝」の祈りの様式に一致しています。彼は自分が「他の人たちのよう」でないことを神に感謝します。そういえば「ファリサイ」という名称は、律法を遵守しない輩から「自らを分離する」という意味のヘブライ語に由来します。具体的には「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく」、それからご丁寧に「また、このような徴税人のような者でもないことを感謝します」と(11節)。

目の前にいる徴税人との比較はともかく、ユダヤ教の文献には、よく似た祈りが伝えられています。例えば、

私の神である主よ、あなたに感謝します。あなたは私の分け前を、ベト・ハ・ミドラシュ〔律法研究の家〕に座る者たちと共にされ、街角に座る者たち〔無知な商人たち〕と同じになさいませんでした。なぜなら私も彼らも早起きしますが、私はトーラーの言葉のために、しかし彼らは軽薄な無駄話のために早起きします。私も彼らも働きます。私は働いて報いを受けますが、彼らは働いても報いを受けません。私も彼らも走りますが、私は来るべき世界の命のために、他方で彼らは破滅の淵へと走るのです。(b. Ber. 28b)

あるいは、こういうものもあります。

ラビ・ユダは言った。人は毎日、三つの感謝を唱えなければならない。主は讃えられよ、彼は私を異教徒に造られなかった。すべての異教徒は神の前に無であるから(イザヤ書40,17)。彼は讃えられよ、彼は私を女に造られなかった。女は律法を満たす義務をもたないから。彼は讃えられよ、彼は私を・・・無教養な者に造られなかった。無教養な者は罪を避ける用心をしないから。(t.Ber 7,18)

これらはすべて大真面目な感謝の祈りです。私たちの譬えのファリサイ人が「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」でないことに感謝しているのが、大人しく見えるほどです。「無知な商人たち」「異教徒」「女」「無教養な者」への蔑視は、律法に従うことで神の意思を行うことが許されていることへの感謝と表裏一体をなしています。じっさい私たちのファリサイ人も、続いて週に二度(月曜と木曜)の断食と、十分の一税の徹底的な納入に言及します。これはファリサイ派に特徴的な、より先鋭化された律法遵守の実践です。

 他方で、徴税人は目を天に上げることもせず、胸を打ちながら、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈ります(13節)。これは「嘆き」の祈りの様式です。「憐れんでください」と訳された言葉は、「和解/宥和させてください」というような意味です。

ファリサイ人と徴税人の祈りは、神殿という場所におかれることで、当時のイスラエルの民族的アイデンティティーのありかを端的に示すものになっています。つまり父祖伝来の祭司律法を一般民衆にも遵守するよう要求する民族主義者がいる一方で、この地域を実効支配しているローマ帝国の末端で働くことによって自民族から差別される者がいます。そして神殿を中心とする政治体制は、この差別する者たちと差別される者たちの両方によって、実質的に維持されていたのです。

 

IV

 譬えの物語り手は、「義とされて家に帰ったのはこの人であって、あのファリサイ派の人ではない」と言います(14節)。――徴税人が「義とされた」積極的な理由には言及がありません。例えば徴税人の頭であったザアカイのように、超過徴収分を民衆に返却したといった報告はありません。この徴税人を謙遜さのお手本としたのは、エルサレム神殿が王族や貴族祭司もろともに滅び去ったユダヤ戦争敗戦後の時代に、非ユダヤ人として福音書を書いているルカであるように思われます。

 では譬えの話者イエスとその聞き手たちにとって、徴税人が真のイスラエルであるという、驚くべき結びのコメントは何を意味するでしょうか?――それは何よりも、イエスから見て、神殿が神との出会いを最終決定的に保証するものでないことを意味します。ファリサイ派的な律法遵守も同じことです。つまり民族の宗教規範を強化することでアイデンティティーを維持し、その結果、内部差別を生み出してしまうようなシステムにイエスは賛同しません。イエスはむしろ、自らの同志たちに祭司の特権を要求し(マルコ福音書2,23以下)、自分たちを「王(なる神)の息子たち」と呼んで、本来は神殿税を納める必要などないと言いました(マタイ福音書17,24以下)。また「私は義人でなく、罪人を招くために来た」と言って、徴税人を弟子に加えています(マルコ福音書2,13以下)。

 神の王国は、祭司が支配する神殿や、ファリサイ派がすべてを決める律法細則の遵守ではないのです。他方で徴税人が「義とされた」という発言には、イスラエルの神の名において反ローマ武装闘争を行うことへの、やんわりした拒絶があるのかも知れません。

 

V

敗戦後64年をへた私たちにとって、このイエスの譬えから何を学ぶことができるでしょうか? ひとつだけ小さなエピソードをご紹介します。

つい先日、私の知りあいのトルコ国籍のクルド人男性が、突然に品川入管に収容されました。彼は数ヶ月前に工場で機械に挟まれて怪我をし、労災を受けて治療療養中でした。この方は、私の大学の教え子の婚約者です。今回の入管への収容は、二人が婚姻届を出そうとしていた矢先のできごとでした。法律的には、難民認定再申請の一次審査が不認定であったことが収容の理由だそうです。今月号の「教会たより」に、ガリラヤ会の特集記事「滞日外国人の苦しみを共に負って――ハンド・イン・ハンドちばの働き」があります。そこには、いわゆる「不法滞在者」に、不法入国者・超過滞在者・資格外就労者などの多様な実態があると指摘されています。このクルド人男性は難民申請をしていますので、ご本人から見ればその何れにも当たらないでしょう。それでも収容されるのですから、「法を犯した悪い外国人」として扱われていると感じるだろうと思います。

いったい日本で暮してよいのは誰なのでしょう? 明治維新以降、「日本人」の境界が絶えず揺れ動いたことは、皆さんもご存知と思います。――イエスは、「神様、罪人の私を憐れんでください」祈った徴税人が義とされて「家」に帰ったと言います。ならば私たちは、国籍や自分たちの国の法律を重んじつつも、その境を超えて、徴税人の祈りをこう言い換えてよいのではないでしょうか、「神さま、社会からよそ者・犯罪者とされた私と和解して下さい。私の人生に対して恵み深くあってください」。こうした人が義とされて、自分の「家」に帰るのが、イエスの望んだ神の王国でした。



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