2009.5.24

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「弁護者が遣わされる」

村上 伸

列王記上19,1-18;ヨハネ福音書15,25-16,4

聖霊降臨祭の直前の日曜日は、「アジア祈祷日」と定められている。これには30年以上の伝統があり、「アジア・キリスト教協議会」(CCA)に所属する教会が毎年交代で準備する慣わしである。今年はスリランカ・キリスト教協議会が企画に当たった。

ニュースでご存知の方も多いと思うが、スリランカでは先週5月18日、反政府武装勢力「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)の最高指導者プラバカラン議長が政府軍によって殺害され、25年以上続いた内戦がここに終結したと伝えられた。民衆の中からは喜びの叫びが起こったというが、事態はそれほど単純ではないようだ。

スリランカはインド亜大陸の南東にある島国で、1505年以来ポルトガル、その後オランダ、1802年からはイギリスの植民地であった。第二次大戦後、1948年に独立したが、多数派シンハラ人主導の政府が少数派タミル人への差別政策を強行したために民族対立が激化したと言われている。やがて、プラバカランという人物がタミル人反政府グループLTTEの最高指導者となって独裁体制を固め、北東部の独立を頑なに主張して83年以降、内戦に突入した。プラバカラン議長は、自爆テロの手法を使ったり、少年兵には捕虜になることを禁じて青酸カリを持たせるなど、その指導方針には批判も多かったがどうにもならず、結局、悲惨な結末を迎えたのであった。

『東京新聞』の報道によると、LTTEの今後は不透明だという。「独裁者の死で雲散霧消するとの見方がある一方、海外を拠点とするタミル人の支援で地下組織としてテロを継続するとの懸念も強い」。また、外交筋には、「プラバカラン議長が権力保持のために優秀なタミル人を粛清したことが最大の問題だ」という見方がある。

他方、スリランカ政府にも問題がある。一般市民が「人間の盾」としてLTTEに拘束されていたために国際社会が総攻撃を見合わせるよう訴えたが、政府軍はそれを無視して攻撃を続け、議長を殺した。その結果、国際社会の信用は失われた。

スリランカ・キリスト教協議会(ジャヤシリ・T・ペイリス総主事)が今年のアジア祈祷日の準備を始めたときは内戦がまだ続いており、死者は既に7万人に達していた。加えて、2004年12月26日のインド洋大津波による死者が4万人だ。あと何万人死ねばいいのか? この悲惨な状況の中で、彼は戦争をやめるように強く訴え、アジアの諸教会にそのために祈って欲しいと要請する。スリランカでは仏教・ヒンドウー教・イスラームが多数を占め、キリスト教は僅か7%だが、教会はシンハラ人とタミル人が平和に共存する唯一の場だ。だからこそ、教会には平和への使命がある、という。

スリランカは、島の形から「涙のしずく」と呼ばれているが、この美しい名前がそのまま今年のアジア祈祷日の主題となった。そして、ペイリス総主事は、特別な意味を込めて「涙」という言葉を使っている。すなわち、「涙は、痛み・呻きを意味するが、同時にこの状況を変える希望でもある」というのである。彼は続けてこう言う。

「世界は闇と混乱で満ちています。アジアは暴力と怒りで満ちています。この国は痛みと苦しみで満ちています。イエスは泣かれました。涙を流された復活のキリストこそ、世界の光であり、希望です」。これは、ヘブライ人への手紙5章7節の聖句と関係がある。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に祈りと願いとを捧げられました」。

続けて、彼はこう祈る。「私は泣いて目はかすみ、枕は涙で濡れています。真なる神よ、私を思い起こして下さい」。

 

スリランカの兄弟姉妹たちの苦しみを思いながら、私たちは今日のテキストであるヨハネ福音書15章に眼を向けたい。これは、十字架の死を覚悟したイエスが弟子たちに残された約束である。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさる」26節)。

「弁護者」というギリシャ語は「パラクレートス」で、これは元々、「傍に呼ばれた者」という意味であった。そこから、無実の罪を着せられて法廷に引き出された人を助ける「弁護人」を意味するようになった。昔の文語訳や口語訳が「助け主」と訳したのは、その点を強調するためであったろう。ルターは「慰め主」と訳し、本田哲郎神父は「協力者」と訳しているが、趣旨は同じだ。「父のもとから出る真理の霊」、つまり、「聖霊」があなたがたの所に遣わされて、あなたがたを慰め・助ける「弁護者」となる、とイエスは弟子たちに約束されたのである。その約束が実現したのが、「ペンテコステ」の日であった。その日聖霊が弟子たちに降った、と聖書は告げる。

イエスはこの世を去って天に昇られた。もう直接に彼と出会ってその話を聞いたり、親しく彼の手を握ったり、彼をハグしたりすることは出来ないが、彼は聖霊という目には見えない仕方で絶えず私たちの傍におられる。聖霊において主イエスは私たちを慰め・助け、私たちを内側から動かして力強く生かして下さる。聖霊とは、私たちの内に働くキリストの見えざる力である。そして、この「聖霊が来る」という約束は、スリランカでも、この日本でも、世界のどんな所でも実現する。そして、どのような困難の中でも、「イエスは主である」というメッセージを力強く語らせる。

このことを信じて、スリランカの兄弟姉妹たちと共に、ヨハネ黙示録21章3〜4節の聖句を味わいたい。

「見よ、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。



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