2009.2.1

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「光り輝く雲」

村上 伸

申命記18,15-22;マタイ福音書17,1-8

 イエスは、その公生涯のほぼ中ごろに当たるこの時、「高い山に登られた」(1節)。「山に登る」ことにはどのような意味があるか? 私の小さな経験から考えたい。

 私の最初の赴任地・安城(愛知県)の一帯は昔荒地であったが、矢作川から引かれた用水のお陰で素晴らしい農地に生まれ変わった。「明治用水」(明治17年完成)という。教会の直ぐ裏に満々と水をたたえた用水が流れ、その向こうには見渡す限り美田が広がり、土地の人は誇らしげに「日本のデンマーク」と呼んでいた。

 私は、その町に7年いた。二人の子供たちもそこで生まれたから、美しい思い出が沢山ある。ただ一つだけ、不満があった。それは、一面の平地で、山がなかったことである。遠くに猿投の山々が望まれたから、全く山が見えないわけではなかったが、月に一度ぐらいの割合で、無性に山の中を歩きたくなった。あれは、どういうことだったのだろうか。

 時に「水平から垂直へ」と視線を向け変える必要がある、と感じたからではないかと思う。それは内心の強い要求であった。山に行くと、人の視線はいや応なしに高い山頂や、亭々とそびえる樹木、あるいは深い谷底に向けられる。いわば「垂直の次元」を経験する。日常生活が営まれる平地では、人の視線は常に家族・仲間・世間といった「水平方向」に向けられる。だが、人はそれだけでは満足できないのだ。

 東洋でも西洋でも、昔から多くの修行者が「山に籠った」。日常の便利さや快適さを断念し、あらゆる人間付き合いから自分を引き離して、高い山の頂を、あるいは深い谷の底を見ながら自らを正し、あるいは鍛えたのである。

 イエスが高い山に登ったのは、修行者たちのように単に自己訓練をするためではなかった。神と向き合って祈るためであったろう。だが、もう一つの目的があった。というのは、イエスはこの時、既に十字架の死を覚悟していたからである。今日の箇所の直前に(16章21節)、「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とある通りだ。この重大な時に、彼は何よりも先ず、自らに関わる神の意志を確認したかったのであろう。世間の評価や弟子たちの意見といった水平方向からの声はもういい。それよりも、上から垂直に語りかけられる「いと高き神」の御言葉を聞きたい。山に上ったのはそのためであった。

 出エジプト記24章によると、モーセはシナイ山の山頂で「十戒」を授けられた(12節)。二枚の掟の板を持って山から下って来た時、彼の「顔の肌が光を放っていた」(出エジプト記34章29節)という。それと同じように、山の上でイエスの姿は変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。神から大切な使命を与えられた人の顔は光を放つのである。

 続いてマタイは、「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」(3節)と書いている。このことは何を意味するか? この三人には共通点がある、ということであろう。モーセは神から十戒(律法)を授けられてそれを民に伝えたが、イエスはモーセ律法の本来の意味を掘り起こす律法の完成者(マタイ5章17節)として「神の国」の福音を神から示されて、それを人々に告げた。

 では、エリヤについてはどうか? この人物は、紀元前850年頃イスラエル王国で活動した預言者である。バアル礼拝にのめり込んで行った政治的権力者たちやその取り巻きと果敢に戦った人として知られる。だがその結果、彼はアハブ王とその妻イゼベルの激しい怒りを買い、独りで荒れ野の奥深くに逃げなければならなかった。「彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください』」(列王記上19章4節)。心身ともに疲れ果てたのである。疲労困憊した彼は眠ってしまうが、主の御使いが枕元に「焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶」(6節)を持ってきて励ます。それを食べ、飲んでやや回復した彼は「四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」(8節)。

 そこで、彼は苦しみを告白する。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」(10節)。エリヤはこの時、ほとんど絶望していた。

 このエリヤの姿は、ゲッセマネの園で祈られた時のイエスと重なって見える。イエスは「そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼ら(三人の弟子たち)に言われた。『私は死ぬばかりに悲しい』」(マタイ26章37-38節)。そして、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(同39節)と三度祈る。やがて十字架に付けられたイエスは、息を引き取る直前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫ばれた。エリヤが絶対の孤独の中で絶望していたように、イエスも御自分が神から見捨てられたと感じていた。

だが、エリヤは神の約束の言葉に励まされて絶望の淵から再び立ち上がる。この点でエリヤは、死の絶望の中から復活したイエスの先駆者と言えるであろう。

 イエスは高い山の上で、モーセやエリヤと会った。彼らと共に「光り輝く雲」に覆われる。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」(5節)という声が雲の中から聞こえた。イエスはこうして神に選ばれた者としての自らを自覚し、十字架への苦難の道を進んで行かれたのである。



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