2008.12.21

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「生まれる子」

廣石 望

創世記28,10-17;ルカ福音書1,26-38

I

敬愛する姉妹兄弟の皆さん、クリスマスおめでとうございます。

いわゆるクリスマスの表記は各国語によって、さまざまです。英語のChristmasは「キリストのミサ」、ドイツ語のWeihnachtenは「献げられた夜」(複数形)、フランス語のNoëlは「知らせ」という具合に、意味もさまざまです。スペイン語Navidadやイタリア語Nataleは「誕生」の意です。もちろん「神の子キリストの」という限定詞が省略されているのだと思います。クリスマスを指して「お誕生」と呼ぶのは、たいへん意義深い習慣だと思います。今日は有名なマリアの受胎告知の場面を手がかりに、キリストの誕生とは何か、そもそも人が生まれるとは何であるのかについて、ごいっしょに考えてみましょう。

II

 私たちは誰も、自分が生まれてくる時代、国や地域、そして家庭や境遇を選ぶことができません。それはイエスも同じでした。

 彼が生まれたのは、およそ3千年続いたメソポタミア地方を中心とする古代オリエント文明から、やがてイタリア半島のローマが中心になってゆく古代地中海文明への大きな転換期に当たります。イエスの生まれたパレスティナ地方は、そのメソポタミア世界と地中海世界をつなぐ、陸の架け橋のような位置にあります。当時、ユダヤ人は本国であるパレスティナだけでなく、世界の各地に散在して居住していました。バビロン(メソポタミア)とアレクサンドリア(東地中海)には、ディアスポラ・ユダヤ人の巨大な共同体がありました。彼らは、まるで文明の橋渡し役を担うべく運命づけられていたかのようです。

 ところがイエスの時代、「神の約束の民」というユダヤ人の民族的なアイデンティティは、世界文明の変動の中で大きな危機に瀕していました。エルサレムにあった唯一のヤハウェ神殿を中心としながらも、誰が「真のイスラエル」「真のユダヤ人」であるかが問われたために、民族の内部に「罪人」と呼ばれる人々ができて、異教徒に対しては言わずもがな、民族同胞の内側ですさまじい差別がまかり通っていました。

 そんなパレスティナのユダヤ社会にあって、イエスの生まれ故郷は、神殿のある本国ユダヤ地方からみれば、辺境に位置するガリラヤ地方のナザレという村です。当時、ガリラヤ地方を支配していたのはヘロデ・アンティパスという名の領主です(在位は紀元前4年から紀元後39年)。彼は文化的にも政治的にも、親ローマ政策を推し進めました。彼はナザレの近くのセッフォリスから、ガリラヤ湖畔に都を移して、当時のローマ皇帝にちなんでティベリアと名づけました。またユダヤ文化の伝統に反する仕方で、兄弟の妻を(兄弟の生前に)自分の妻にしたのも、その流れです。預言者ヨハネは、これを批判したために捕えられて斬首されました。

 また当時の男子は、生まれた家の父の職業を継ぐのが通常でした。イエスの父ヨセフは「大工」(木工ないし石工)だったそうですので、イエスもそのための手ほどき受けたのだろうと思います。

III

 そのような時代と国そして境遇にイエスは生まれ、成長した後に、洗礼者ヨハネの「来るべき神の怒りの審判」というメッセージに接して深く共感し、〈古い自分に死んで新しい者として生きる〉ために、罪を告白して彼から洗礼を受けました。

 イエスは父の家を出て、やがては先生のヨハネからも別れて、放浪者として生きました。ユダヤ教の根本的な確信である、〈一人の神が王として支配する〉というメッセージを伝えるためです。彼のメッセージには、いくつかきわだった特徴があります。

 イエスが宣教したイスラエルの神は、人の心と向き合う神です。この神は、神殿祭儀や律法の細かな決まりごとの遵守といった、民族同胞に対する内部差別を助長するような仕組みを最終決定的なものとは見なしません。

 つぎに、イエスが宣教したイスラエルの神は慈愛に満ちた創造神です。この神は社会の中で小さくされた「罪人」を探し求めて、「神の国」の祝宴に招く神、彼らが「お父さん/アッバ」と呼びかけることのできる存在です。この神は世界の創造神ですので、「けがれ」によって封じ込められたり、外国人を排除したりしません。

またイエスが宣教したイスラエルの神は、その支配の実現のために、人間の武力や暴力を求めませんでした。この神は非暴力の神です。イエスの神の国のメッセージは、無一文の空っぽの手に平和のメッセージだけを携えて、見知らぬ人の家の扉をたたく放浪の説教者たちによって伝達されました。

 イエスは自らの誕生という運命の中で、自らに与えられた使命を自覚し、これを果たそうとしたのだと思います。イスラエルの神が万物の創造神であるというイエスの確信は、自分が生まれた民族の伝統を、他の諸民族を含む広い世界につなぐことを意味します。制度化されて硬直化した宗教から、神と人々を解放すること――「けがれた霊」が憑いていると信じられていた病人たちをイエスは癒しました――、このことは被差別者に「神の子」としての尊厳を回復することを意味します。またイエスの運動は徹底的に非暴力でした。彼はローマ帝国による構造的な暴政にも、また対ローマ武装闘争にも賛同しませんでした。彼によって派遣された弟子たちは、〈その家に平和の子がいないなら去れ〉と、つまりゲリラのように村人を脅して、そこにアジトを作ってはならないと教えられています。イエスはむしろ「罪人」たちと共に食事することで、「神の国」の祝宴の前夜祭を祝いました。社会から排除された無力な者たちによる新しい共同体を作ろうとしたのです。

IV

しかし皆さんご存知のように、彼の試みは挫折しました。彼は道半ばにして処刑されました。しかし「復活」が彼の運命を変えました。イエスが伝えようとした神の支配は、彼の死後、その復活をもって始まったと信じられたからです。ルカ福音書が描く受胎告知も、この視点から描かれています。

 1.処女降誕というとキリスト教の専売特許のように思っている人がいるかも知れません。しかし偉人や英雄の誕生に関して、「神による妊娠」や「処女降誕」といった観念は、当時のヘレニズム・ローマ世界に広く知られていました。人並みでない誕生は、その人が特別な存在であることを表現するのに適したトポスでした。他方でユダヤ教は、神と人の違いをあいまいにしかねない、そうした考えをひどく嫌っていたのです。

例えばローマの歴史家スエトニウスは、皇帝アウグストゥスの誕生について、母アイティアとアポロン神の間に生まれたとする伝説を伝えています。

アイティアは例年の祭儀に奉仕するため、アポロン神殿にやってきて、神殿の中に臥輿をおき、他の貴婦人たちが寝ている間に、自分もまどろむと、大蛇が不意に彼女の中に這って入り、しばらくして出ていった。彼女は目を覚まし、あたかも夫と同衾したかのように、身を清めた。すると見るまに彼女の体の表面に大蛇を描いたようなあざが現れ、どうしても消すことができなかった。…それから十ヶ月たって彼女はアウグストゥスを生む。そのために彼はアポロンの息子と見なされたという。(スエトニウス『ローマ皇帝伝』「アウグストゥス」国原吉之助訳)。

 他方で、ガリラヤのナザレにマリアを訪ねた私たちの天使ガブリエルは、こう言いました(31-33節)。

あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。

 「父ダビデの王座」「ヤコブの家を治める」といった発言は、マリアの息子イエスがイスラエルのメシアであることを示しています。つまりイスラエルのメシアという民族主義的思想が、処女降誕という異教的イメージを通して表現されているのです。民族主義と普遍主義の結合という、イエスの神宣教と同じ特徴がここに見出されます。

2.続いて少女マリアは天使の挨拶を聞いて、「戸惑った」とあります(29節)。原語のギリシア語は「混乱する」という意味の強い言葉です。岩波訳は「しかし彼女は、この言葉にまったく心を乱され、この挨拶はいったいなんのことだろうと思いめぐらしていた」と訳します。

マリアが混乱したのは、言うまでもなくこの妊娠が思いがけないものであったからです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)という彼女の反応は、もしかしたら〈私はまだ子どもを生めない〉という意味かもしれません。マタイによる福音書は、マリアがシングルマザーになる可能性があったと記しています。彼女の許婚であるヨセフが、婚約者の妊娠に驚いて、密かに離縁しようかと悩んだとありますので。そのマリアに向かって、私たちの天使はこう語りかけます(35節)。

聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

 この天使の言葉は、〈神がこの子を通して大切なことを計画しておられるのだから、生んで大切に育てなさい〉という意味だと思います。ギリシア・ローマ社会における子棄てや子殺しについては、いろんな証言が残されています。奇形児や虚弱児、望ましくない星座の下で生まれた子ども、姦通や強姦の結果この世に生を受けたとみなされた赤子、そしてとりわけ貧困家庭に生まれた子ども(とくに女子)は、殺害や遺棄の対象になりました。日本にも「間引き」がありましたし、現在はおびただしい数の妊娠中絶、そして幼児虐待があります。

私たちの天使ガブリエルは、思いがけず生まれてくるマリアの子を「神の子」と呼んで、その尊厳を回復してやっています。これもまた、イエスによる宣教の特徴に、ぴたりと一致します。

 3.最後に、マリアは天使に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と返答します(38節)。教会の伝統では、このマリアの言葉は、神の計画のために我が身を差し出す、たいへん信心深い姿を表現するものと理解されてきました。たしかにその通りだと思います。それでもギリシア語原文を逐語訳すると、「見よ、〔ここにいる私は〕主の女奴隷。私に生じるがよい、あなたの言葉の通りに」となります。この言葉は、〈いま妊娠するのが私の運命ならばそれを受け入れます〉、〈神の導きを信じ、この子を生んで育てます〉という、少女マリアの覚悟の表明でもあるのだと思います。再びイエスと同様に、マリアはこの小さな命とともに生きようとしたのです。

V

このように受胎告知の物語は、イエスの宣教の特徴を彼の誕生に向けて再解釈した物語として読むことができます。マリアの妊娠は、イスラエルのメシアの処女降誕という、民族間憎悪の克服を目指す筆致で語られます。期待されずに生まれる赤子に「神の子」としての尊厳を認めて、この無力な子どもとともに生きるのが自分の運命であると、マリアは覚悟を固めました。

イエスが父の家を離れたときも、彼がゲッセマネの園で祈ったときも、同じことだったのではないでしょうか。そして私たちが、自らの運命と使命を自覚するときも、同じことなのではないでしょうか。

私たちは人生の歩みを進める中で神と出会い、神と駆け引きをします。「これが私の使命、歩む道なのですか。もっと別の人生を期待していたのに」。しかし天使は言います、「神にできないことは何一つない」(37節)。

マリアは神の全能を信じました。イエスもまた、一人なる神の全能を信じて、人の暴力を拒絶することで、社会から排除された無力な者たちによる新しい共同体を形成する道を選びました。

人の誕生とは神の全能と出会うことです。人には、それぞれ他人に代わってもらうことのできない、神から与えられた使命があります。人となった神の御子イエス・キリストの誕生は、そのことを私たちに教えていると思います。

皆さんお一人ひとりに、メリークリスマス!



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