2008.11.9

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「自分の業を終えて休む」

村上 伸

ダニエル書12,1-3;ヘブライ人への手紙4,10-11

キリスト教の暦では11月23日が一年の最後の日曜日で、「終末主日」と呼ばれている。西欧の教会では、その日に「死者を記念する礼拝」を行うのが一般の習慣であるが、私たちの教会では毎年11月第2日曜日に「召天者記念礼拝」を守ることにしている。先に天に召された信仰の先達を記念するこの特別の礼拝である。今日もここに多くのご遺族の方々をお迎えした。懐かしい人たちのことを思い起こして感謝の気持ちを新たにするとともに、ご遺族の上に心から神の恵みと祝福を祈りたい。

週報の裏面に名簿が印刷してある。一応「正規の教会員を」ということで線を引かせて頂いたので、この名簿にお名前が載っていない方々もある。しかし、その人たちも同じように記念したいので、お写真をお持ちの方は今からでも前の台に並べて頂きたい。神の祝福の下で、ご一緒にひと時を過ごしたいと願っている。

この方たちの多くは長生きをし、寿命を全うされた。これは疑いもなく神の祝福であって、感謝すべきことだ。しかし、中には愛する人が思いがけなく早く、まだ若くして亡くなるという大きな悲しみを経験された方もおられる。その「未完」に終わった人生に口惜しい思いもされたことだろう。その「未完」ということについて、今日は先ず申し上げたい。

今年はキング牧師の死後40年ということもあって、色々な所で彼の名を聞くが、彼が公民権運動の途上で暗殺されたのは、まだ39歳のときであった。正に「未完の生涯」と言わなくてはならない。しかし、仮にその死が早すぎたとしても、彼の生涯が無意味であったわけではない。その影響力は今に至るまで衰えていないのだ。

反ヒトラー抵抗運動に身を捧げたドイツの神学者ボンヘッファーも、ゲシュタポによって絞首刑に処せられたとき、同じく39歳であった。そのボンヘッファーが獄中から友人に宛てて書いた手紙の中で、人生は多くの場合完璧なものではあり得ず、しばしば断片的で、まるで「トルソのようだ」と書いている。「トルソ」とは、頭部や手足のない、胴体だけの彫刻のことで、ギリシャ古代の彫刻を集めた美術館ではいくつも見かける。多くは無名の彫刻家の作品だが、ハッとするほど美しい。

ボンヘッファーが「我々の人生は一つのトルソである」と書いたとき、彼は既に自分の人生が断片のまま未完で終わることを覚悟していたのかもしれない。しかし、断片でも美しいものがある。この着想には慰められる。

イエスも、30歳のころ十字架上で殺されたから、彼の生涯は「未完」であったと言えるかもしれない。しかし、この方の短い一生が世界史の中で持ち得た巨大な影響力を考えるなら、「未完」であることは必ずしも悲しむべきことではない。

 

ここで、先ほど朗読したヘブライ人への手紙4章10-11節に目を留めたい。その前後に書いてあることは大変「ヤヤコしい」ので、私は思い切ってそれらを省略し、「神の安息」というキーワードに絞って述べることにする。

神が休まれる! これは聖書独特の思想である。天地創造の神話はバビロンにもあるが、そこでは、最高神マルドゥクは創造の業を終えると神々の集会で大いに賞賛されたという。だが、創世記の天地創造物語は、神は創造の業を完成された後、「お造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1章31節)と書き、さらに、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」2章1節)と続けている。

この「安息」は、単なる「骨休め」ではない。神が「ああ、疲れた」と言って「一息入れた」ということでもないし、責任を逃れてどこかに「雲隠れした」ということでもない。昔、日本では、旧暦の10月に八百万の神々が皆出雲に集まると言われていた。他の地方では神々が留守になる。そこから、10月は別名「神無月」と呼ばれた。

しかし、この「神の不在」という考えは、聖書にはない。聖書の神は、モーセに対してご自身を紹介し、「わたしはある。わたしはあると言う者だ」出エジプト記3章14節)と言われたという。つまり、どんな時にも「必ずあなたと共にいる」と約束して下さるのが聖書の神だ。だから、「神の安息」は「神の不在」ではあり得ない。

「必ずあなたと共にいる」と約束して下さるこの神が、ご自分の意志に従って天地万物を造り、その仕事が完成したとき、その出来栄えに満足し、喜んでそれを祝うために「仕事を離れ、安息なさった」。それ故、「神の安息」は「完成の喜び」であり、「喜びの祝祭」にほかならない。今日の箇所に「神は御業を終えて休まれた」10節)とあるのもそういう意味だ。世界も人生も、この大いなる肯定から始まった! このことを我々は心に刻みたい。

この世界の中にあるすべてのもの、特に、一人ひとりの人間は、神がそう望まれたから存在する。一人として、無意味に、あるいは偶然に生きている人はいない。そして神は、我々一人ひとりが生きていることを喜び、祝福されるのである。繰り返すが、神が創造の業を終えて「安息された」というのは、そういう意味なのである。

天寿を全うして天に召される人もいるし、残念ながら若くして未完の生涯を閉じる人もいる。しかし、どんな人でも、神の大いなる肯定によって生きているのだから、死ぬ時も無意味に死ぬわけではない。その死には、我々にはまだよく理解できないかもしれないが、独自な意味が与えられているに違いないのである。

「神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休む」と言われている。この言葉は、我々の死が持っている深い意味を暗示しているのではないだろうか。



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