2008.8.24

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「支配者への従順と隣人愛」

廣石 望

サムエル記上8,1-22;ローマの信徒への手紙13,1-10

I

先週に続いて、今年度の教会カンファレンスの総合主題「平和をつくりだす教会――私たちのヴィジョン」との関連で、そしてとりわけ「戦争に抗して」というサブテーマを念頭におきながら、今日の聖書箇所に耳を傾けたいと思います。

ローマの信徒への手紙13章は「教会と国家」あるいは「宗教と政治」という主題を扱う上で、古典的なテキストの一つになりました。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(1節)という言葉で始まるこの箇所は、しばしば王権神授説の根拠に、つまり政治権力を神の名によって絶対化するために用いられました。他方で市民革命の時代には、神の意思に逆らう悪しき国家権力に対しては服従する必要はない、という解釈も生まれました。

ところで、この箇所に直ちに続けて、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)という隣人愛の教えが出ることを、皆さんはご存知でしたか。さらにその先には、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)、「夜は更け、日は近づいた」(12節)という言葉があらわれます。すると権威への服従は、隣人愛および終末待望といっしょに、三つでワンセットになってキリスト者の生活を特徴づけるものと理解されているようです。

とりわけ世の終わりへの希望がはっきり語られていることからは、パウロやローマ教会の信徒たちが、いわゆる「上に立つ権威」を永久不滅のものとはまったく思っていなかったことが分かります。あらゆるこの世の権威は、この世界が終わるときに解体されるのです。では、権威への服従と隣人愛はどのような関係にあるのでしょうか? 

II

どのような状態にある教会に宛てて、どんな意図を込めて、パウロはこうした言葉を書いたのでしょうか。大まかなことしか分かりませんし、推測するしかないこともたくさんあります。しかしパウロが、あらゆる時代に通用する原則的発言をしているのではなく、具体的な状況の中で語っているのは事実だと思われます。そこで少し長くなりますが、あるていどの見取り図を描いてみましょう。

ローマの信徒への手紙は、紀元56年頃、コリントで執筆されたと想定されています。時期的には、ネロ帝の治世(紀元54-68年)の初期にあたります。この間、とりわけ都市ローマは、少なくとも外面的には比較的に平穏でした。

パウロの執筆動機としては、少なくとも以下の二つがあります。まず彼は、自分は原則的に開拓伝道のみ行うと述べた上で(ロマ15,20)、もはやローマ帝国の東半分(具体的にはパレスチナ、シリア、小アジア、ギリシアなど)での宣教は完了したので、今後は西半分、具体的にはスペインに伝道に行くつもりだと言います(15,23-24参照)。したがって手紙はローマ教会に対する自己紹介と支援要請です。これまでの伝道で彼が足がかりにしてきたユダヤ教会堂がスペインにはありませんでした。また、パウロはスペインの現地語を解しません。ですからスペイン伝道には、当地出身のローマ教会会員の助力が必要不可欠でした。

もう一つにパウロは、西方に向けて旅立つに先立って、自分がギリシア地域で設立した諸教会から集めた献金を、エルサレム教会に届けるつもりだと言います。しかもそれが成功するよう祈ってほしい、つまり側面から援護してほしいとローマ教会に求めています(ロマ15,25-33参照)。わざわざそんなことを頼むのは、エルサレム教会が異邦人キリスト教会からの義援金を拒否する可能性が高かったからです。果たせるかなパウロの不安は的中したようです。彼はエルサレムで逮捕された後に幽閉され、後にローマに送られました。パレスチナのユダヤ人の間で、国粋的な感情が高まりつつあったのでしょうか。エルサレムにはパウロの異邦人伝道に反対するユダヤ人キリスト教の勢力が存在しました。彼らは、パウロが開拓伝道で設立したガラテヤ教会に向けて、割礼と律法遵守を要求する対抗伝道をわざわざ計画し、実行しているくらいです。失敗すると分かっていたのに、パウロはエルサレムに旅立ちました。原始教会との歴史的なつながりを重視したのでしょう。その意味で、この手紙は彼の遺言です。

III

では、手紙の宛て先のローマ教会は、どのような状況にあったのでしょうか。三つほど申し上げます。

まずローマ教会は、異邦人とユダヤ人からなる典型的な混成教会です。その会員たちの社会的身分や出身地域については、手紙の末尾にある16章に「だれそれによろしく」という挨拶がたくさん出ることがヒントになります。碑文資料などとの比較から、合計26名あげられた個人名のうち、4名は解放奴隷、9名は奴隷であるとする説があります。彼らはギリシア名をもっていますので、自らないし先祖が東方からローマに、何らかの理由で移住したのでしょう。さらにそうした人々が暮していたのは、一戸建てのヴィラが立ち並ぶ裕福な居住区ではなく、いわゆる下層民が暮らす「長屋」区域、つまり一つの部屋に一家全員が暮らし、しかもそうした部屋が壁一を隔てて連なっているような地区が想定されます。

いずれにしてもローマ教会は「家の教会」の集合体であり、私たちの教会のように礼拝専用の建造物など所有していません。しかもそれぞれの家の教会は、一人の富裕なパトロンを中心とするものとは違い、基本的には小さき者たちの手弁当による「草の根」教会だったのです。

ローマにおけるキリスト教伝道は、ユダヤ教会堂を足がかりとして生まれたと思われます。しかしやがて会堂との間に緊張関係が生じました。パウロがローマの信徒への手紙を書く数年前の紀元49年、「クラウディウスの勅令」とよばれるものが発布されています。「ユダヤ人はクレストゥスの騒動で絶えず騒擾を起こしたから、彼(クラウディウス)は彼らをローマから追放した」(スエトニウス「クラウディウス伝」25,4)。同じ事件をルカは、「クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるよう命じた」と記します(使徒言行録18,2)。――「クレストゥス」とは明らかに「キリスト」の聞き間違いですが、これは奴隷に多い名でした。奴隷身分の者を多く含むキリスト教徒が原因となって、ローマのユダヤ人共同体の中で騒動が生じ、それが周辺住民や官憲の注意をひいたということなのでしょう。何があったのでしょうか。多くの研究者の推定によれば、異邦人伝道を行うユダヤ人キリスト教徒が、もともとユダヤ教に好意的であった異邦人シンパサイザー(「神を畏れる者たち」)を――彼らに割礼を受けさせることなく洗礼によって――どんどん自分たちの側にどんどん取り込んでしまい、このことが伝統的なユダヤ教徒たちの憤激を買ったのです。

クラウディウス勅令により、少なくとも紛争の当事者たち、とりわけ異邦人伝道を推進したユダヤ人キリスト教徒たちは、都市ローマを去りました。そのなかに、ポントス出身のユダヤ人であるプリスカとアキラ夫妻がいます。彼らはコリントに逃れましたが、そこでパウロと出会い、彼らはチームを結成しました(使徒言行録18,2-4参照)。

ユダヤ人キリスト教徒が去った結果、都市ローマのキリスト教は異邦人キリスト教が主流になりました。ユダヤ教会堂との分離も進んだことでしょう。その結果、クラウディウスの死(紀元54年)を受けて、かつてのユダヤ人キリスト教徒が再び都市ローマに帰ってきたとき、主導権をにぎった異邦人キリスト教徒との間で、関係がギクシャクしたもようです。パウロは手紙の中で、異邦人キリスト教徒を「強い者たち」、他方でユダヤ人キリスト教徒を「弱い者たち」と形容しつつ、〈強い者たちは弱い者たちを軽んじてはならず、むしろ弱い者たちを受け容れて彼らに配慮するように〉と何度も諭しています。つまりローマ教会は、ユダヤ教会堂との関係においてだけでなく、自分たちの内側にも緊張を抱えていました。

これに、ローマ都市官庁との緊張関係が加わります。クラウディウスの勅令は、ユダヤ教会堂と家の教会の両方に、ローマ市当局に対する、ひいてはローマ皇帝に対する拒絶反応をひきおこした可能性があります。「貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(7節)というパウロの勧めは、ローマ教会内部で、市当局および皇帝に対する強硬意見が存在したことを示唆するかも知れません。

IV

こうした状況に、パウロはどう対処しようとしているでしょうか。おそらく「共存」というキーワードで、彼の基本的な方向性を要約することができそうです。

ユダヤ教会堂との関係について、パウロは〈イスラエル民族に対する神の約束は死んでいない。彼らは世の終わりには救われる〉と論じることで(ロマ9-11章)、イスラエル民族との共存を提唱します。一方にイスラエル民族、他方にユダヤ人と異邦人からなる教会が、一つの〈神の民〉の両翼なのです。イスラエル民族との共存が、ローマ教会の生きるべき道です。

つぎにローマ市当局との関係についても、パウロは「敬うべき人は敬え」(7節)と言って、共存を訴えます。名誉を帰すべき者、最終的にはローマ皇帝に対しても名誉を帰せよと。もともとキリスト教は、〈ローマ帝国が科した十字架刑によって最も忌むべき恥の死を死んだキリストを神は起こした〉ということで、帝国の上昇志向的な価値観を転倒させるポテンシャルを備えています。それでもパウロには、そのキリストを宣教するためであれば、皇帝と彼の官僚たちが要求するシステムを受け容れる用意がありました。もしかするとパウロは、ローマに対して武力を用いて聖戦を行うべきだとするラディカリストの立場を退けているのかもしれません。

最後にパウロは、ローマ教会の内部で「強い者たち」と「弱い者たち」が共存するよう呼びかけます。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)という隣人愛の教えは、そうした文脈で理解することができます。さらに「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(10節)とあるときの「愛/アガペー」とは、共同の食事のことだとする最近の学説があります(R.Jewett)。すなわち、異邦人キリスト教徒の「家の教会」とユダヤ人キリスト教徒の「家の教会」は、それぞれ自宅の集会所を開放して、相手側の文化習慣を尊重しつつ、互いを食事に招きなさい。そうすることで、「隣人を自分のように愛する」(9節)という律法の基本精神を実現しなさい、という理解です。〈アガペー(共同の食事)は隣人に対して悪を行わない。だからアガペーは、およそ法なるものの成就である。〉

V

古代ローマの歴史の中で、スペイン人は、ユダヤ人と並んでローマの支配に長いあいだ抵抗した誇り高い人々でした。逆にローマ人から見れば、スペイン人は「野蛮人」の代名詞でした。ローマ人には、「野蛮人」に対する明確な優越意識と抜きがたい差別感情がありました。コロセウムでは捕虜になった「野蛮人」が、民族衣装を着せられて野獣の餌食にされました。かりに、そんな帝都ローマの異邦人キリスト教徒に、ユダヤ人や「野蛮人」を蔑視する態度が染み付いていたとすれば、そうした教会を足がかりにしたスペイン伝道がうまくゆくはずもありません。

VI

ひるがえって私たちの国では、この箇所はどう理解されてきたでしょうか。この分野では、宮田光雄『権威と服従――近代日本におけるローマ書十三章』(新教出版社、2003年)というたいへん優れた仕事があります。その第5章「太平洋戦争の只中で」から、二つの文章を引用します。

「日本の皇室のごときものは、世界の何処にもない。それは創造の秩序に於いては、世界を照らす太陽の象徴である。」「桜花は散るが又来年咲く。それは主に在る復活の徴であり、又同時に楠公の七生報国の徴でもある。桜花日本基督教は、桜花となって力を尽くして神の国に事へ、力を尽くして帝の国に事へる。我らは殉教の為に血を流す。だが同時に殉国の為にも血を流す。日本人の耳で神の言を聞く桜花日本基督教は、桜花の如く美しく、桜花の如く悲しく、桜花の如く勇ましい。・・・日本にしかない桜花基督教を、一宇八紘、地上、凡ての人に見せたい。」(藤原藤男『ロマ書の研究』1943年より、前掲書178-9頁に引用)

これは、キリスト教信仰を天皇制および国体に対する絶対服従の中に解消し、全面的に戦争体制に協力するという発言です。日本民族が世界で最も優れているという主張は、古代ローマ人が、〈私たちは神々を敬うことにおいて他民族に抜きん出ているので、その敬虔のゆえに神々は私たちに世界支配の権能を賦与した〉と公言してはばからなかったことに通じるものがあります。

別の発言を引用します。

「信仰によって悪はにくみ、善はしたしみつつ権力に服従する時、始めてその服従は偽善的とならず、自由なる、義しき、良心的なる服従となるのであります。之によって我々は一方に於いて国家の腐敗の場合之を責める預言者であると共に、他方に於いて常に国家の権力に対する良心的服従者たり得るのです。否、国家権力が神より出でたものであることを知って之を重んずればこそ、それが濫用せられる時預言者は黙さないのです。」(矢内原忠雄『ロマ書講義』1942年より、前掲書238-9頁に引用)

ほとんど同じ時期に、これほど違う見解があったのです。矢内原の発言の強調点は、「自由なる、義しき、良心的なる服従」の一方で、「国家腐敗の場合之を責める」、あるいは国家権力が「濫用せられる時預言者は黙さない」という点にあると思います。

パウロが「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられた」と言ったときのポイントの一つは、おそらく、都市ローマの市民祭儀におけるように軍神マルスやユピテル、あるいはオリュンポスの神々ではなく、イスラエルの神、イエス・キリストの父なる神の定めの下に、ローマ市当局ひいては皇帝の権威があるということです。ローマの公権力のトップにある人々がこれを聞いたら、さぞかし驚いたことでしょう。さらに「神によって」と訳されている箇所は、基本的には「神の支配下に」という意味に解することが可能です(宮平望「神の下にない権威」、『キリスト新聞』2008年4月19日「論壇」欄を参照)。つまりこうなります、「神の支配下にない地上の権威はなく、今ある権威はすべて神の支配下に立てられた」(1節を参照)。この世の権威は、それ自体で神聖なものではなく、神との関係においてまったく世俗的なのです。

私たちが「平和をつくりだす教会」をヴィジョンとして掲げるとき、パウロの言葉や日本の教会の歩みから学ぶべきことは何でしょうか。おそらくこう言ってよいと思います。互いの違いを尊重しつつ食べ物や命を共有するアガペーの実践を、民族・宗教・国家の境界線を越えて行いなさい。そしてそれを促進することがおよそ法なるもの、善を追求する公権力の存在理由であり、その限りにおいて良心をもって社会秩序を重んじなさい。

宮田氏の書物に、第二次世界大戦中の中国戦線に加わり、捕虜虐殺の命令を拒否した一人の無教会キリスト者の、次のような歌が引用されています。

生きのびよ獣にならず生きて帰れこの酷きこと言い伝うべく

(渡部良三『小さな抵抗』、シャローム図書、1994年、87頁より、前掲書248頁に引用)

このような証言が私たちの国のキリスト教の歴史に残されていることを、自らの未来につなげたいと願います。



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