2008.7.27

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「深い悲しみ」

村上 伸

申命記7,6-8;ローマの信徒への手紙9,1-5

 ローマ9-11章「ユダヤ人問題」を扱ったところだと言われている。「ユダヤ人問題」とは何か?「神に選ばれた民」であるユダヤ人、つまり、「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」4節)を与えられたイスラエル民族が、神に背き、御子イエス・キリストを殺してしまった。一体、どうしてそんなことになったのか? このことを考える度に、パウロの心は悲しみにふさがれた。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(2節)というのはそのことであり、それが、パウロにとっての「ユダヤ人問題」だったのである。

 ところで、同じ「ユダヤ人問題」という言葉を使いながら、まるで別のことを考えていた人物がいた。ナチス・ドイツの指導者で、第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーである。まだ若かった1923年に、彼はミュンヘンで一揆を起こして失敗し、牢に繋がれた。彼が獄中で書いた『わが闘争』(平野一郎訳、角川文庫、1973年)という本は、後に「ナチズムのバイブル」として広く読まれたが、この中にはユダヤ人への偏見と激しい憎悪、あるいは反ユダヤ主義的な言説・主張が一杯つまっている。

「民族と人種」というテーマを扱った第11章が特に凄まじい。彼は、あらゆる人種の中で最も優れているのがアーリア人種(ドイツ人)であり、その対極にあって最も劣等な人種がユダヤ人だ、と断定する。そして、次のようなことを言う。ユダヤ人は不潔であり、自らの文化を持たない。動物のように原始的な群居本能によって生きている。誰も彼もひどいエゴイストであり、常に他民族の体内に住む寄生虫である。そして、その宗教(ユダヤ教)は、彼らがキリストを殺したことからも分かるように、倫理的・道徳的に価値を持たない、云々。

 これは偏見と憎悪に満ちた書物だ。もちろん、他民族に対し、あるいは国内の少数民族に対して偏見に基づいた憎しみが注がれる例は、我々の国でも決して珍しくない。しかし、ヒトラーの場合は特別であった。彼は、ユダヤ人が「すべての苦悩の元凶・・・人類の悪質な敵」(下巻、374頁)なのであり、ユダヤ人の存在自体が問題だと言った。彼にとって、「ユダヤ人問題」とはそういうことであった。そして、この厄介な問題を最終的に解決するにはユダヤ人を絶滅させる以外に道はないと考えた。その結果が、アウシュヴィッツなどの「絶滅収容所」だったのである。

パウロも今日の箇所でユダヤ人の問題について考えているが、その姿勢は、ヒトラーが「ユダヤ人問題」を論じた時とは全く違う。ヒトラーにとって、ユダヤ人は「憎むべき敵」であったが、パウロにとっては「愛すべき同胞」である。ヒトラーにとってユダヤ人は、虫けらのようにひねり潰しても自分は痛くも痒くもないといった存在だが、パウロにとってのユダヤ人は、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」3節)とあるように、自分と同じ血肉を分けた存在であった。

だからと言って、パウロはユダヤ人を批判することを避けてはいない。彼らが犯した大きな過ちを極めて率直に指摘する。たとえば9章31-32節「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。何故ですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです」。あるいは10章2-3節「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、その熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」

要するに、ユダヤ人は「不従順で反抗する民」(同21節)であったというのである。だから、「つまずいた」(11章11節)のだ。それは、やはり「彼らの罪」(11節)であり、「彼らの失敗」12節)である。そのためにユダヤ人は「捨てられた」15節)のであり、「不信仰のために折り取られた」(20節)のだ、とパウロは言う。

しかし、パウロはこうした批判を、自分は傷つかずに、気楽に述べたわけではない。自分自身の問題として、血のにじむような思いで書いたのだ。フィリピ3章5節以下で、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」と述べているように、パウロは筋金入りの「原理主義者」であった。原理主義者は人を殺す。彼も、イエスやその弟子たちを殺すことを是認し、あるいは自ら実行した。だから、ローマ10章2節「その熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」という言葉は他人事ではなかったのだ。彼はここで自らの過去を振り返り、身を切るような自己批判をしているのである。この姿勢が、今のイスラエルに少しでもあれば、パレスチナの紛争は解決の方向に向かうのではないか。

最後に言いたい。このような切実な言葉を語りながらも、パウロは絶望していない。神の深い知恵に眼を向けているからである。その知恵とは、ユダヤ人が躓いたことを通して異邦人に救いをもたらし、それがまたユダヤ人への祝福となって還流するという「神の道」11章33節)である。歴史には、このような神の道がある。それは、「神の賜物と招きとは取り消されない」同29節)という約束に裏打ちされた道である! そして、このことを信じるのが我々人間の「道」なのだ。



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