2008.6.15

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「善をもって悪に勝つ」

村上 伸

アモス書5,14-15;ローマ12,17-21

 「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」(出エジプト記21章23-25節)というのが旧約聖書の代表的な考え方だと考える人は多い。家族や仲間を殺されたら下手人は断じて生かしておくな。目を抉り出されたら相手の目も抉り出せ。歯を折られたら相手の歯も折ってやれ。「復讐が正義である」というのが旧約の基本だ、というわけである。

 しかし、旧約聖書があくまで復讐にこだわっているかのように考えることは、一面的である。歴史家たちによると、「目には目、歯には歯」という掟は、本来、我々が今想像するほど残酷なものではなかったらしい。人間には「自分に甘く・他人に厳しい」性質があるから、自分に加えられた害はどうしても大袈裟に言い立てるし、自分をそういう目に遭わせた奴を憎む。「八つ裂きにしても飽き足りない」などと言う。その結果、「仕返し」はしばしば限度を超える。むろん相手も同じように感じるから、結局、報復合戦になる。そして、一旦報復合戦が始まったら最後、際限のない悪循環に陥る。この世でこうした悪循環ほどおぞましいものはなく、それを防ぐために考え出されたのが「同害復讐法」(ius talionis)だ、というのである。

 他人から何か害を与えられたとき、「受けた害以上の仕返しをする」ことは思い止まらねばならない。せいぜい同じ程度の仕返しでとどめておくのが人生の知恵であって、「目には目、歯には歯」というのもそういう意味だ。そして、それは旧約聖書だけでなく、人類最古の成文法である『ハムラビ法典』(紀元前18世紀)にも見出される。いわば、古代オリエント世界共有の知的財産だ、というのである。

 パウロは、今日の箇所で復讐心を克服しようとしているのである。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(17節)。その際、注目すべきことがある。復讐を否定する根拠として持ち出す言葉のすべてを彼は旧約聖書から引用している、ということである。

 たとえば19節前半に、「自分で復讐せず」と言われている。これは、レビ記19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。わたしは主である」の引用である。これは、後でも触れるように、主イエスが最も重要な掟の一つとして引用した聖句だ。

 19節後半の「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」というのは、申命記32章35節「わたしが報復し、報いをする」という言葉の引用だし、20節「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」は、箴言25章21-22節そのものだ。

 旧約聖書には確かに復讐を正当化したり賛美したりするような物語が沢山あるし、イスラエル民族の歴史は復讐の歴史だと言ってもいい位だ。しかし、それを克服しようとする動きも既に始まっている、ということに注目しなければならない。「復讐こそ正義」という考え方ではやって行けないということに、旧約の人々も気づいていたのである。このことを最も深く徹底させたのが、主イエスであろう(山上の説教)。

 ある時、律法の専門家がイエスと出会い、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたことがある。イエスはこう答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22章37-40節)。

 つまり、イエスは旧約聖書という「言葉の大海」の中から、最善の言葉だけを選び出し、それによって生きる道を我々に示したのであった。それは、復讐心を乗り越える道・愛によって生きる道にほかならない。

 坂上香(さかがみ・かおり)というジャーナリストが、『癒しと和解への旅』(1999年、岩波書店)という本の中で米国のある市民団体のことを書いている。「和解のための殺人事件被害者遺族の会」(Murder Victims Families for Reconciliation.MVFR)という、家族を殺害された被害者の団体で、1993年に創立された。被害者の遺族たちは、毎年、まだ死刑制度が残っている州を選んでは旅をし、死刑廃止を訴えているという。坂上さんはその旅に同行して取材したことを報告している。

 アンという年配の白人女性は、娘を銃で撃たれて殺された。そのことで苦しんだ息子は数年後に自殺する。想像を絶する悲しみ・苦しみだ。ある日の公聴会で、アンは偶然にも犯人の母親であるという黒人女性バーバラの話を聞く機会を得た。そして、彼女も深く苦しみ、「毎晩のように悪夢にうなされている」ことを知る。その後で、バーバラは「息子が殺した女性には娘さんがいました。その女の子を抱きしめてあげたい」と言ったのだ。この言葉に強く揺り動かされたアンは、バーバラのもとに駆け寄り、「孫を抱きしめてやってくれませんか」と申し出る。それがきっかけになって、アンとバーバラは強い友情で結ばれ、この運動のために一緒に活動するようになる。

 これは、何を意味しているのだろうか? 憎しみや復讐心を乗り越えたときに初めて人間らしい平安が戻ってくるということではないか。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」(21節)とはそういうことだろう。そして、それは可能なのである。可能と言うよりも、人間は憎しみや復讐心を抱いたままでは生きられないのだ。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)というパウロの言葉も、そのことを示しているように思われる。

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