2008.6.8

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「執り成し」

廣石 望

イザヤ書 53,11-12;ローマ 8,26-30

I

キリスト教会は「執り成し」の祈りという習慣を知っています。自分のためでなく、他人のために祈るという美しい習慣です。ドイツ語でFürbitteと言います。誰かの「ために」(für)、「願い」(Bitte)を神に捧げるという意味です。そんなことをして何になるのだという意見もあるかも知れません。しかし自分には大したことは何もできないということを十分自覚した上で、それでも止むにやまれぬ気持ちから、困難の中にある愛する人々の心に寄り添おうとする気持ちはたいへん尊いものです。どうすればよいか分からず途方にくれているとき、私の知らないところで私のことを気にかけてくれる友がいることほど、ありがたいことは他にありません。

神に祈ることは、現代社会では広範囲に亘って失われているように見えます。しかし私の知る限り、ピンチのときに「神さま、助けて!」と心の中で叫ぶという学生たちは決して少なくありません。おそらく大人も同じです。イエスもゲッセマネの園で「お父さん!」と、神に向かって心の中で叫んだと伝えられています。この手紙を書いたパウロは、生涯の後半生をキリスト教伝道の旅に献げました。彼はとてつもない距離を歩いて、言葉の通じない土地を通過しつつ、未知の町を訪れてはキリストを宣教して回りました。そしてパウロもまた、途方にくれて神に祈るという経験を何度もしましたし、彼とその一行のために祈り続けた人々がいたのです。

 

II

今日の聖書箇所は、助けを求める私たちと神の間で「霊」が仲立ちすると言います。「霊も弱いわたしたちをたすけてくださいます」(26節)とある箇所のギリシア語原文は、「霊はまた私たちの弱さを引き受けて、ともに担う」と訳すことができます。私たちの弱さは、「どう祈るべきか知らない」(原文では「適切なしかたで何を祈り求めればよいのか分からない」)という点に典型的に表われるのでしょう。そんな中にあって「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」。「執り成す」と訳されているのは「間に入る」というほどの意味の言葉です。「霊」と呼ばれる存在は、私たち自身が何を求めてもがいているのか分からない、その分からなさを言葉にならない呻きをもって自ら共に担いながら、神と私たちの間に入って仲立ちをするというのです。

最近、レイプ被害を生き延びたある女性の手記を読む機会がありました。そこに、その方が女性のカウンセラーに話を聞いてもらう場面があります。

 

私が自分の考えをうまく言葉にできずに混乱して腑に落ちないときも、なぜか彼女は話をうまく表現して「こういうことかな?」と確認してくれる。
「なんで私が伝えようとしてる気持ちが分かるのですか? 私は上手く喋れていないのに・・・」

 とたずねると、

「だって、あなたが私にそう話してくれたんだもの。私はそれを(なぞら)えただけですよ」と。

(小林美佳『性犯罪被害にあうということ』朝日新聞社、2008年、139-140頁)

 

「私はそれをなぞらえただけですよ」――これが、霊がなすとパウロの言っていることであるように感じます。もちろん現代のカウンセラーは、自分の働きが人々の思いを、霊の働きを介して神に届けることだとは考えないでしょう。それでも多くのカウンセラーが、目の前の相談者について、たんに外側から診断を下すだけではなく、自分たちを少なくとも〈理解しようとしてほしい〉という相談者の気持ちに応えようとしていることは間違いありません。

さらにパウロは、「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っている」と言います(27節)。その霊が「神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる」とも。「人の心を見抜く方」とは神のことです。その神が、人の思いを言葉で準えようとすることが霊の思いであることを知っている。他方で霊は、神に即して、信仰者たちのために間に入る。だからこそ、霊を介して私たちの思いは神のもとに届くのでしょう。

 

III

続いてパウロは、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるよう共に働くということを、わたしたちは知っている」(28節)と言います。罪もない人に突然に不幸が降りかかるこの世にあって、なぜ「万事が益となる」などと楽観的なことが言えるのでしょうか? 神の召し、神の計画とはいったい何なのでしょうか?

29節以下がその答えであるように思われます。ここでは、神が「知る」「定める」「召しだす」「義とする」そして「栄光を与える」という都合五つの動詞が、「あらかじめ」という副詞表現とともに次々に使われます。「前もって知った」者たちを、「あらかじめ定め」ることもなし(「定める」とは「分かちおく」という意味です)、そうした者たちを「召し出す」こともなし(原義は「呼ぶ」)、また「召し出した」者たちを「義とする」こともなし、そして「義とした」者たちに、ついには「栄光を与える」こともなしたという具合です。

これら五つの動詞の順序が何を意味するかは、その目的が何であるかを述べる文章から、推し量ることができます。すなわち「御子の姿に似たものにしようと」定めた、それは「御子が多くの兄弟の中で長子となる」ためであったという文です(29節)。つまり「神の召し」とは、神の御子イエス・キリストの姿によって信仰者たちの生と死が根源的に規定されるようになることです。神の計画とは、キリストの生と死が、信仰者にとって事実として真のモデルになることに他なりません。

 

IV

このことと「執り成し」に何の関係があるでしょうか? ――数年前、テレビであるルポルタージュ番組を見たことがあります。第二次世界大戦中の日本軍によるフィリピンでの残虐行為に関するものです。以下は記憶による再現ですので、少しあいまいな部分があるかも知れません。当時、日本軍兵士の中には、おそらく軍事作戦そのものはすでに崩壊し、取り残された兵士たちが飢餓状態に置かれたことから、現地住民を日本刀で斬殺して食べるという、にわかには信じがたいことを実際に行った人たちがいたそうです。「猿を採りにいく」という隠語が用いられたとのこと。この主題は、例えば大岡昇平の小説にも扱われています。ルポルタージュは、かつてそのような行為を行った一人の旧兵士が、あまりにも取り返しのつかない酷いことをしたことを心から悔いて、遺族にお詫びをするために現地を再び訪れた、その旅に同行するものでした。

現地には、幼いときに目の前で父や母を日本軍兵士によって殺され、〈解体〉された記憶をもつ人々が生きていました。衝撃的だったのは、そうした人々の中に、「私はあなた方をずっと前から赦しています。そして、あなた方のために神に祈ってきました」と言う人がいたことです。なぜそんなことができるのですかという問いかけに、この人はおよそこんなふうに答えました。「私はキリスト教徒です。キリストはこう祈るよう私たちに教えました。〈我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ〉と。キリストが赦しておられるのだから、私は赦します」。

――これが「執り成し」なのだと思います。この言葉に接した旧兵士の方は、後に洗礼を受けてクリスチャンになったそうです。この言葉を語った方が「御子の姿に似たもの」にされた信仰者であり、旧兵士の方にとってこの出会いが「神の召し」、また「神のご計画」になったのです。私たちに〈主の祈り〉が託されていることは何と誇らしく、また大切なことでしょうか。



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