2008.4.6

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「平和の神が」

村上 伸

エゼキエル書34,1-10;へブライ13,20-21

 ヘブライ書の著者は、ここで主イエスを「永遠の契約の血による羊の大牧者」(20節)と呼んでいる。「牧者」とは、むろん、単なる「羊飼い」のことではない。もともとは、政治的・宗教的な意味での指導者を意味していた。

 「羊の大牧者」という言い方を聞いて直ぐに思い出されるのは、先ほど朗読した旧約聖書のテキスト、エゼキエル書34章だ。ここで預言者エゼキエルは、自分のことしか考えないイスラエルの指導者たちを厳しく批判しているのである。

 「牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力づくで、苛酷に群れを支配した」(2-4節)。さらに、主なる神ご自身が、「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱っているものを強くする」(16節)と約束された、という。これが主なる神の意志なのであり、この神の意志に従って群れを養うのが牧者、つまり指導者の努めだ、というのである。

 指導者というものは、正義と秩序を守るためには、罪を裁かなければならない。旧約聖書の時代、この務めを行ったのは「士師」(Judges)、あるいは「王」であった。だが、人々が犯した罪を裁くだけでは十分ではない。神の意志を明らかに示し、それによって罪悪を生み出す根源がどこにあるかを知らせ、こうして人々に正しい生き方の方向を示すことが必要である。この務めを果たしたのが「預言者」であった。

 だが、指導者にはもっと大切な務めがある。それは、弱者への配慮である。エゼキエル書34章にあるように、「弱い者を強め、病める者を癒し、傷ついた者を包む」こと。あるいは、人々が犯した罪の赦しのために執り成しの祈りを絶やさないことである。これは、「祭司」の役割であった。

 人間は罪を犯すものだ。これは、古代のユダヤ社会でも現在の日本でも、基本的には同じである。パウロは、いくつか「罪の一覧表」を作っているが、例えばローマ書には、「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、そしり、神を憎むこと、人を侮ること、高慢、大言、悪事を企むこと、親に逆らうこと、無知、不誠実、無情、無慈悲」(1章29節以下)とある。ここに挙げられているような罪が新聞やテレビで報道されない日はない。

 こうした罪は、むろん厳しく裁かれ・糺されねばならない。しかし、祭司的な役割を果たす指導者(牧者)がいない社会は不幸である。古代イスラエルでは、大祭司が「民の罪を贖う」(レビ記9章7節)ためにただ独り聖所に入り、犠牲の動物を屠り、その血を祭壇に塗り、脂肪や肝臓や腎臓を焼くという儀式を行った。そのように、罪を犯した人々のために執り成す「祭司」が、我々の社会にはどうしても必要なのである。

 1960年代の終わりごろ、数々のテロ事件を起こした赤軍派の若者たちが捕えられてベルリンの獄につながれた。州教会のシャルフ監督は、獄中に彼らを訪問して彼らのために祈ったことがある。そのために彼は、「テロリストに同情的すぎる」と批判され、「赤い監督」などと呼ばれたが、彼は揺るがなかった。これは牧者である自分の祭司的な責任だ、というのである。また、先のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、かつてヴァチカンで銃撃を受け、腹部に重傷を負ったが、傷が癒えたとき、彼は獄中にその犯人を訪ね、兄弟と呼びかけて彼を赦した。

 「祭司」の務めとはそのようなものであり、それを最も深い意味で果たしたのが主イエスであった。古代イスラエルの祭司は、毎日のように、「民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために、動物犠牲を捧げ」(5章3節)たが、主イエスは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9章26節)。彼が「永遠の契約の血による羊の大牧者」と呼ばれるのは、そのためである。

 ヨハネ福音書10章11-15節を想起しよう。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。・・・わたしは羊のために命を捨てる」。これこそ、大祭司キリストの姿ではないか。

 このイエスを、神は「死者の中から引き上げられた」(20節)と、ヘブライ書は書いている。彼のすべての愛の業、彼の一つ一つの執り成しの祈りは、彼の肉体の死によって終わりはしなかった。天に「引き上げられた」、つまり、全能の神の可能性の中に移されたのである。だから、それは永遠に継続される。

 そして、この神は「平和の神」と呼ばれる。「平和」とは、主イエスによって神と我々人間の間にもたらされた和解、関係修復のことであり、それに基づいて約束された、祝福に満ちた生活のことである。それは「ローマの平和」(Pax romana)のように、力で反対勢力を押さえつけることによって初めて実現できるものではなく、神が「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちに」(21節)実現して下さる平和である。つまり、真の安全と、共に生きる穏やかな暮らしと、正義の実現(シャローム)である。平和の神がこのことを約束して下さる。それを信じて生きよう。



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