2008.3.9

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「キリストの苦しみ」

村上 伸

イザヤ書45,18-19;ヘブライ人への手紙5,7-10

 『ヘブライ人への手紙』の著者は、明らかに福音書の「受苦物語」を念頭に置いて今日の箇所を書いている。そこで、私たちも、マルコ福音書14-15章によって「受苦物語」の大筋を辿りたい。そこには、この世界のさまざまな問題が凝縮した形ではっきりと現われている。

先ず、祭司長たちや律法学者たちの高ぶりが挙げられよう。彼らは、モーセ律法を「原理主義的に」絶対化する姿勢を頑なに守っている。その立場から、「なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」14章1節)。すべてはそこから始まったのだ。そして、それは計画通りに遂行された。彼らは、イエスが神を冒涜したという理由をつけて、強引に死刑を宣告する。

次に、弟子たちの弱さと裏切りという問題がある。イエスがゲッセマネの園で「ひどく恐れてもだえ始め」(33節)、「わたしは死ぬばかりに悲しい」34節)と言い、地面にひれ伏して「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」(35節)と祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と切に願ったとき、最も信頼する三人の弟子たちは眠りこけていた。ユダは銀貨30枚でイエスを売り、接吻を合図に(45節)逮捕させた。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)。ペトロは「鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」(72節)というイエスの予言通りに彼を否認した。

次に、群衆の付和雷同を挙げたい。つい先日までイエスを歓呼して迎えていた群衆は、今や祭司長らの煽動に乗って、闇雲にイエスの処刑を要求する暴徒と化していた。この群衆が、「十字架につけろ」(15章13節)と叫んだのである。

さらに、総督ピラトの無責任を挙げなければならない。初めこの処刑に乗り気でなかったピラトも、群衆の叫びにとうとう押し切られる。マタイ福音書によると、彼は「この人の血について、わたしには責任がない」27章24節)と言って「手を洗い」、凶悪犯バラバの代わりにイエスを殺す決定を下してしまう。

こうして、イエスは十字架に釘付けにされ、人目に晒された。通行人は彼を罵った。午後3時に、イエスは大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)と叫んで息を引き取った。これがイエスの「苦しみの道」であった。

祭司長たちや律法学者たちの高ぶり、弟子たちの弱さと裏切り、群衆の付和雷同、総督ピラトの無責任。これらの諸要素が重なり合って、あれほどの悲しみと屈辱、苦痛と絶望を、この真実な方に強いたのである。このことを、『ヘブライ人への手紙』の著者は、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ・・・」7節前半)と表現したのであった。

だが、著者はそこでやめない。このような悲しみと屈辱、耐え難い苦痛と絶望には意味があった、と彼は考える。7節後半〜9節に、イエスの祈りと願いは「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして・・・御自分に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となったのです」と言っているのはそのことである。

「畏れ敬う態度」「従順」とは、具体的に言えば、自分に加えられた不当な苦しみに対して感情の赴くままに報いたりせず、そこに隠れている神の意志に従う、ということであろう。普通なら、不当に加えられた苦しみに対しては誰でも怒り、「許せない!」と激高し、「やられたらやり返す」のが正義だといきまくだろう。2001年9月11日、あの衝撃的な「同時多発テロ」が起こったときもそうだった。米国大統領を初め大多数の人々がそう叫び、実際、アフガニスタンやイラクで戦争を始めた。

だが、イエスは違う。どんなに理不尽な苦しみを受けても、愛の故に黙ってそれに耐え、ただ神の意志に従おうとしていた。イザヤ書53章の「主の僕」もそうだ。愛の故に、また神の御心に従って理不尽な苦しみにも耐えるという気高い態度には、世界の罪を救う力がある(redemptive)とM・L・キングは言ったが、これは真理である。

9・11事件が起こって三日後に、一つの注目すべき出来事があった。フィリスとオーランド・ロドリゲスという夫婦が「私たちの息子の名を用いないで欲しい」と題する次のような声明をEメールで各地の友人たちに送ったのである。

「我々の政府が暴力的復讐の方向に突き進んでいるというニュースに、もううんざりしています。このような事態の進むところでは、遠い国の息子や娘や両親や友人たちが死に、苦しみ、そして私たちに対する恨みを一層増し加えていくことになります。これは進むべき道ではありません。・・・特に私たちの息子の名においてなされるものであってはなりません。息子は、非人間的イデオロギーの犠牲となって死んだのです。私たちの行動はそのような目的に仕えるものであってはなりません。どうか、悲しみましょう。反省し祈りましょう。この世界に真の平和と正義をもたらすような理性的な応答について考えましょう・・・」(「われらの悲しみを平和への第一歩に」15頁)。

このメールは、世界中に大きな反響を巻き起こした。それは「平和な明日」(ピースフル・トウモロウズ)というNPOの発足につながり、それ以来この団体は、報復の連鎖を断ち切るための活動を世界中で展開している。前記の本は、趣旨に賛同する多くの遺族の声を集めたものである(邦訳:岩波書店)。

イエスの苦しみは、その復活を通して永遠の救いの源となった。この人たちも、こういう形で深い悲しみと苦しみを乗り越え、世界の罪を救う(redemptive)力を発揮していると言えるのではないだろうか。



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