2008.3.2

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「あふれる慰め」

村上 伸

ダニエル書9,15-19;コリント二 1,3-7

 パウロは4節で、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」と言っている。「神の慰め」とはどういうことだろうか? 「苦しみを一時忘れさせる」という意味での慰めではないであろう。

 「苦しみを忘れる」ということにも意味がある。それを一概に否定することはできない。ガンのような辛い病気で悩む人が増えつつある今日、一時的であっても「苦しみから解放してあげる」という配慮は一層必要になってきた。耐えがたい苦痛に苛まれている末期ガンの患者にとっては、苦痛を忘れさせてくれるモルヒネは正に「慰め」なのであり、束の間ではあっても安らかな眠りを与えてくれる。このような薬を上手に使いこなす「ターミナル・ケア」(終末医療)は、将来ますます必要になってくるだろう。

 しかし、他方、「宗教はアヘンである」という批判があることも、私たちは知っておいた方が良い。「宗教は、社会が持つ現実の矛盾を根本的に解決しようとはせず、むしろ苦しみを忘れさせることによって一時的な慰めを与え、その結果、本当に解決すべき問題から人の目を逸らす麻薬の役割を果たすだけだ」という批判である。実際、そのような宗教は昔も今も存在するし、キリスト教徒の中にも福音を麻薬のような役割を果たすものとして理解する人がいないわけではない。

 だが、パウロが言う「神の慰め」とは、「神を信じることによって苦しみを一時忘れることができる」というような消極的なことではない。むしろ、それは積極的に「生きる力」のことである。どんなに大きな苦しみの中にあっても力強く生きる力。そして、同じように苦しむ人々を励まして共に本当の解決に立ち向かって行く力。そのような力を、神が与えて下さる。「神の慰め」とは、このことに他ならない。パウロが4節後半で、「わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と言っているのは、そのことである。

 さて、ここで「苦難」について一言述べておきたい。パウロが言う「苦難」とは、具体的には11章23節以下に描き出されているようなことである。

 「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか」

 これは、彼自身の切実な体験であった。その意味では、この「苦難」は個人的なものだ。しかし、それは決して「彼ひとりの」ものではなかった。昔のイスラエル預言者たちも同じような苦しみを味わったし、パウロと同時代の多くのキリスト者も同様である。いつの時代でも、人間として真実に生きようと志す人は、誰でも苦しみを経験する。だから「苦難」は、少々大げさに言えば、広く全人類のものである。

 次の段落でパウロが、「アジア州でわたしたちが被った苦難」と複数形を用いて書いているのは、その意味で重要である。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」(8-9節)。「苦難」は、単にパウロ個人の問題ではない。

 さて最後に、彼が苦難のただ中で受けた「深い慰め」について述べなければならない。それは、キリストの苦しみがもたらした慰めであった。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる」(5節前半)。

 イエス・キリストは、一人ひとりの人間、特に貧困や病気に苦しんでいる人たち、この世で最も小さな人たちを心から愛して、その人たちのために苦しみを引き受け、自らの命を捧げられた。この方の苦しみが、苦難の内にあるパウロを慰めたのである。いや、彼だけでない。キリストの苦しみは、苦難の中にいるすべての人々を慰めた。キリストの苦しみは満ちあふれて、すべての人に及んだ! これは、聖書が私たちに示す最も深い洞察である。

 私を愛して、そのために苦しんでくれる人がいる! このことを知ったとき、人は心の底から揺り動かされて生まれ変わる。私たちにも、そのような経験がないだろうか。

 戦後すぐ、孤児のような境涯にあった15歳の私は、埼玉県の山奥で人の世話になって辛うじて生きていた。その頃、麓の村に大変親切に私の面倒を見てくれるお姉さんのような人がいた。私は彼女を「トクちゃん」と呼んで懐いていたが、ある日突然、理由もないのに「キレて」、彼女を「バカヤロー!」と罵り、頬っぺたを殴ったことがある。今思い出しても恥ずかしい。だが、彼女は一言も私を責めず、目に涙を一杯ためて私を見た。そして、その後も彼女の優しさは少しも変わらなかった。私は自分が赦され、受け入れられていることを感じた。後にキリストの苦しみについて知ったとき、私はやっとトクちゃんの涙が持っていた深い意味を理解したのであった。

 愛の故の苦しみが私を変えた。そして、それはすべての人を変えるのである!



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