2007・11・25

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「友のために」

廣石 望

詩編126,1-6;ヨハネ福音書15,11-15

I

友人のいない人生なんて考えられません。友とはどんな関係でしょう。

それは生まれる前から血縁でつながっている親子や兄弟姉妹の関係とは違い、生まれた後に与えられる関係です。そうした生後の関係として夫婦関係があります。しかし友人関係については、夫婦に関するような法律はありません。友人関係を規定する法律はありません。他方で友と友の関係は、恋愛関係のような、同様に生後に与えられるものであれ、セクシュアルな関係を重要な要素として含むものとも違います。ようするに友人の関係は、血や法律や性的志向を超えた、自由な人格同士が互いに支えあう関係です。

およそそのような意味で、古来「友」とは「もう一人の私 alter ego」であると言われてきました。それは私にとって私自身が大切であり、何か別のことのための手段や道具でないのと同様に、関係や交流それ自体が目的であるような対人関係です。それは自由で、とても傷つきやすい関係です。いじめや裏切りの多くは、「友」と「友」の間で生じます。

II

今日の聖書箇所には、「友のために自分の命を捨てる」という表現が出ます(13節)。私たちは通常、誰のために命を捨てるでしょうか。

親が子のために自分の命を投げ出すことは、今も昔もあります。血縁関係のない夫婦の間でも同じです。志を等しくする同志の間でも、それはあります。パウロは、同信のユダヤ人キリスト教徒の夫妻であるプリスカとアキラについて、彼らは「命がけで私の命を守ってくれた」(ローマ16,4)と言っています。それでも古代において命を捨てる用意が求められたのは、何よりも「父の国」(祖国)に対してでした。とりわけ成人市民は、祖国のために戦争に出てゆく義務がありました。これに対して、友のために命を捨てる事例はないわけではありませんが、それほど多くはないという印象があります。それだけいっそう、「友のために命を捨てる」という友愛の尊さが印象的なのかも知れません。

III

 今日のテキストは、ヨハネ福音書の「告別説教」と呼ばれるユニットの中に現われます。死に赴くイエスが、弟子たちに最も大切なことを最後に話す場面です。イエスが弟子たちを最後まで愛し、その愛を貫徹させるかたちで十字架にかかってゆくという文脈の中に置かれて、「友のために自分の命を捨てる」という言葉は、イエス自身を指し示します。

イエスは、そのようなことをする目的は、イエス自身の「喜び」があふれるため、そしてその喜びが弟子たちにもあふれるためであるといいます(11節)。そのさい、弟子たちに対するイエスの愛情が、彼らが互いに愛し合うことの根拠です。弟子たち相互の友愛の中で、彼らに対するイエスの愛が実を結ぶと考えられています。そのとき彼らを、イエスは「私の友」と呼ぶのです(14節)。

さらにヨハネ福音書のイエスは、「もはや私はあなたがたを僕とはよばない」と述べて(15節)、「友」という概念を際立たせます。通常キリスト教では、イエス・キリストは「主」というタイトルで呼ばれます。信仰者たちは暗黙のうちに、この「主人」に対する「奴隷」「僕」と考えられています(たとえばローマ1,1でパウロは「キリスト・イエスの僕」と自己紹介します)。

古代奴隷制社会において、奴隷はなるほど人間ですが、その機能の点で家畜や道具と同じでした。奴隷には主人の意志や思い、つまり主人の内面を知る必要がないと考えられていました。そのようなかたちで主人にまったく依存する奴隷に特徴的な生き方は「不安」です。私の身に何が起こるのか、自分から知ることができないからです。

これに対してイエスは「父」なる神の存在をまったく弟子たちに明らかにしたとあります。その内容は、神が世界を愛するということでしょう。ユダヤ教やキリスト教を含む諸宗教において、神はしばしば「隠された神秘」と考えられ、その思いをすべて知ることはとうていできないとされます。しかしここでは、神の啓示者であるイエスと弟子たちの間に、「父」なる神に関する知識の落差はありません。

IV

「友」は、古くから「死」のメタファーです。ドイツ語では、皮肉をこめた親しさで、「友なるハインFreund Hein」と言い習わされてきました。しかしここでは「友」は、キリストが信仰者に与える命と信頼のメタファーです。その豊かさは、いったいどこにあるのでしょう。――最近、大学で行われたインドへのスタディー・ツアーに参加した学生たちと話して教えられたことがあり、そのことをお話します。

学生たちは、ある高校の先生から「インドで経験したことを話してほしい」と頼まれて、高校生たちに自分たちの経験をどう伝えれば理解してもらえるか、一生懸命に考えました。そして「貿易ゲーム」というゲームを用意しました。これは技術もお金もある先進国と、資源や労働力はあっても技術や資金の乏しい発展途上国の関係を、抽象化されたルールに従ってゲームをすることで理解するためのものです。いくつかのグループに紙の袋が配布されます。その中には数枚の紙、鉛筆、ものさし、はさみ、コンパス、トランプのカードなどが、それぞれ違う数だけ入っています。そしてゲームの進行役である「世界銀行」は、こう告げます。「各グループはそれぞれが一つの国です。みなさんは手元にある道具を使って紙を加工して〜cmの三角、四角、あるいは丸を作り、私たちのところにもってきて下さい。企画に合致する製品と認められた場合は、引き換えにお金を支払います。時間内に最もたくさんお金を儲けた国が勝ちです。」

ある袋にはたくさん紙(資源)はありますが、トランプカード(資金)やものさし・はさみ・コンパス(技術)が少ししかありません。そこでその「国」の人々は、ものさしをもっている「国」のところに行き、「この紙と交換してください」という交渉を始めます。そして世界銀行が設定した価格表を見ながら、なるべく高く売れる製品を大量につくってお金儲けをしようとします。技術も資金も潤沢な「国」は、そうでない「国」に対してかなり高飛車な態度に出ながら、しかも「世界銀行」から価格相場に関する有利な情報を横流ししてもらいながら、売り上げを順調に伸ばします。最終的には、「技術開発」に成功した国は元手を何倍かに増やしますが、はじめから先進国であった国はもっと儲ける結果になりました。途上国が少々頑張ったところで、貧富の差は開くばかりだったのです。

このゲームは、グローバリゼーションが加速度的に進展する現代社会を、ある特定の側面から理解するうえで、高校生にもたいへん分りやすいものです。しかし学生たちは、なんだか釈然としていません。「私たちがインドでもっとも衝撃を受け、もっとも感動したことと合わない」と言うのです。彼女たちが出合ったのは、社会的にも経済的にもきわめて困難な状況の中を生きる人々の優しさと強さでした。とても笑えないような境遇で生きる人々の屈託のない笑顔と、真剣な祈りでした。

そこで私たちは、次のような当面の結論に行き着きました。すなわち貿易ゲームは〈競い合うことを通して得られる豊かさ〉を教えるが、現地で自分たちが経験したのは〈命を分かち合うことを通して得られる豊かさ〉であったという区別です。前者を無視して生きることは資本主義社会に生きる私たちにはできません。しかし後者なくしては、人生は生きるに値しない。――ヨハネ福音書のイエスが「友のために自分の命を捨てる」というのは、信頼関係に基づいて〈命を分かち合う〉という意味ではないでしょうか。

 今月初めに、私は少数の研究者仲間とともにトルコ西部およびエーゲ海沿岸のギリシア系の都市遺跡を訪ねてあるく機会がありました。小アジアはパウロやヨハネ黙示録をはじめ、キリスト教にゆかりの都市がたくさんあります。現地に立って実感したのは、初期キリスト教時代の伝道者たちが膨大な距離を歩いたという事実です。彼らもまた、まだ見ぬ旅先で、〈命を分かち合う〉友にきっと出会うことができると信じて歩き続けたに違いありません。

V

もう一つ、大切なことがあります。「命の分かち合い」には、そもそも「命を与えられる」という事実が先立ちます。私たちが愛し合うことに先立って、神の愛という原事実が先行しているのです。私たちを愛し「友」と呼んだキリストは、その神の愛の記念碑となりました。



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