2007・11・18

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「裁きの基準」

村上 伸

エゼキエル書34,17-22;マタイ25,31-46

 教会暦が終わりに近づくこの時期、教会では「終末の裁き」に思いを致すために、マタイ25章がよく読まれる。終末に際しては、人の子(イエス・キリスト)が現われて「すべての国の民」を裁く、というのである。そして、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32-33節)。

 この「羊と山羊を分ける」という言い方は、次のような「分別」の習慣と関係があるらしい。すなわち、当時、パレスチナでは羊と山羊は日中一緒に放牧されていたが、夜になると、山羊は寒さを嫌うので洞穴や小屋に収容される。他方、羊は新鮮な空気が好きなので、より分けて戸外の囲いの中に入れられた。そのように、終末の時には、すべての人がより分けられ・裁かれる、というわけである。

 他方、パレスチナ地方では「羊は白く山羊は黒い」という説明もある。「羊と山羊を分けるように」というのは、「黒と白とを見誤ることがないように正確に」ということを意味するという。私はかつてこれで納得していた。だが、写真などをよく見ると、羊が全部白いわけではないし、山羊がすべて黒いこともない。中には「まだら」のもいる。だから、白と黒という色によって分けたという説は余り説得的ではない。

 また、白い羊は純潔と正義の象徴として右に(欧米の言語では、<右>と<正義>は同じ言葉である!)、黒い山羊は汚れと不正の象徴として左に、というイメージは捨てなければならない。黒人差別と結びつく危険があるからである。

 もちろん、マタイ福音書が書かれた頃のユダヤに、後代の黒人差別と同じような偏見があったとは思えないが、ヨーロッパの白人中心的な価値観が次第に強化されるにつれて、偏見は人々の頭の中に定着し、差別は社会の至る所で増幅された。私たちも無意識の内にその影響を受けている。そのような差別と偏見によってアフリカ系の人々がどれだけ苦しんだか分からない。1960年代に、それへの抗議が高まり、「黒は美しい」(Black is beautiful!)という意識改革が起こったのは、当然なのである。

 さて、本題に戻ろう。神は「羊と山羊を分けるように」すべての国の民を裁くというが、その裁きの基準は何だろうか?

 肌の色でも、生まれつき備わった性質でもない。共に生きる他者に対してどのような関係を作っているか? この一点に関して、すべての人は裁かれるのである。

 先ほど朗読したエゼキエル書34章に、マタイの譬えとよく似た話がある。「主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く」(17節)。そして、神は「良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回す」(18節)ような自己中心的で横暴な羊と、そのために苦しむ弱い羊との間を裁く。あるいは、「脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやる」(21節)ような肥えた羊と、「略奪にさらされた」(22節)やせた羊の間を裁く、と言われている。聖書では、「裁く」というのは、本来あるべき関係を取り戻すことに他ならない。

 マタイにおいても同じことだ。王(=裁きを行う方)は右側にいる人たちを「わたしの父に祝福された人たち」(34節)と呼んで天国の祝福を約束し、その理由をこう説明する。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(35-36節)。このように、人間本来の関係を作り上げる生き方をしているかどうか。これが裁きの基準なのである。

 当人たちはこれを聞いて戸惑いを隠せない。すると王はこう続けた。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。そして、同じことを反転した形で繰り返す。「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(45節)。

 一体、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは誰のことだろうか?

 注解書には、貧しさや多くの肉体的・精神的な困難に耐えながら福音を語り広めていた伝道者たちのことだと書いてある。多分、その通りであろう。伝道者たちが困っているとき、親切に受け入れてその働きを支えるのはキリスト者として当然だ。それが祝福に通じる道でもある。だが、彼らに限る必要もないのではないか。

 問題は、語る伝道者よりも、語られる「福音」そのものである。神の真実の支配がやがて必ずこの地上に来る! その時は、もう遠くはない。だから、希望を失ったり投げやりになったりしてはならない。この福音を語る伝道者を受け入れることは大切だが、「悔い改めて福音を信じる」(マルコ1章15節)ことの方がもっと大切である。

 そうだとすれば、この福音を聞くべき多くの人々のことも考えなければならない。食べる物も飲む水もない貧しさの中で苦しんでいる無数の人たち。その人たちも福音を信じることが出来なければならない。

 本田哲郎神父は、『小さくされた人々のための福音』のこの箇所に、「裁きの基準 ―いちばん小さくされた者と連帯したか、しなかったか」という見出しをつけた。しかも彼は「わたしが飢えていたときに食べさせ」というところを「食べていけるように」と訳している。つまり、それは「食べ物を恵む」という一時的な慈善に留まらず、誰もが飢えることのないように社会構造を変革する働きにつながるべきことを暗示している。「旅をしていたときに宿を貸し」というところも、「外国からのよそ者でいたとき、仲間に入れてくれた」だ。そして、「正しい人たち」(37節)を、彼は大胆にも「解放を志した人たち」と訳している。この理解は正しいのではないか。



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