2007・9・16

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「私たちの教会の10年」

村上 伸

申命記6,4-9;マタイ18,18-20

 今年の「創立10周年記念教会カンファレンス」は、これまでと同様、この主日礼拝をもって開会する。この後、多摩センターに場所を移して続けられるが、そちらには出席できない方々も、少なくとも今はこういう形で共に参加しておられるわけで、問題を共有できることを喜びたい。

 今年の総合テーマは「教会とは?」である。この主題の意味は、一般論として教会を論ずるということではない。むしろ、具体的に「私たちの教会」の諸問題について考えようではないかという呼びかけと理解したい。そんなことを考えながら、私は先週、この教会の過去10年間の記録類をできるだけ丁寧に読み、この間の私たちの教会の歩みを改めて思い起こした。

 それは、「上原教会」と「みくに伝道所」が合同するという、実験的試みとして始まった。先ず予備的な話し合いがあり、基本方針の策定や、具体的なこまごました事柄の取り決めなど、準備段階があった。そして、10年前の7月13日に新しく完成したばかりのこの会堂で最初の礼拝を捧げてから今日までの歩み。いくらかの不安もなかったわけではないが、私たちの教会はさまざまな困難を乗り越えて誕生し、今日まで神に導かれて祝福された道を歩んできたとつくづく思う。

 発足当初は、礼拝出席者が月平均30人台の小さな教会だった。やがて、新しい人々が次々に加わり、教会学校・青年会・婦人会・壮年会その他の活動が始まり、祈り会や聖書の学び、現代聖書研究会や懇談会などの諸集会も定着した。この10年間に洗礼を受けた人は20名である。もはや、「上原」とか「みくに」とかは過去のことであって、今は「代々木上原教会」という全く新しい教会が、この地で存在感を発揮していると言ってよいであろう。このことを思うとき、心から神に感謝すると共に、会員一人ひとりの協力に対して敬意を表すものである。

 さて、今回のカンファレンスのために、何人かの人が「たより」(第62号)に適切な発題を寄せている。私も、「教会」の基本的な理解のために、「社会の中の教会、そして私たち」という一文を書いた。そこで述べたことを繰り返すつもりはない。ここでは、そこに書かなかったことを少し述べてみたい。

 今回のカンファレンスのために、「二人、または三人がわたしの名によって集るところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18,20)という聖句が選ばれたと聞いた時、私は直ぐにシモーヌ・ヴェイユというフランスの思想家を思い出した。

 彼女は1909年にフランスのストラスブールで生まれたユダヤ人である。幼い頃から非凡な才能を認められ、22歳で教授資格を取り、女子高等中学校で哲学を教え始めた早熟の天才だ。その点、私の尊敬するボンヘッファーと似ている。二人が生きた時代も、ナチス支配下のフランスとドイツで、そう違わない。抵抗運動に身を投じたという点も同じである。苦しんでいる人たちから決して目を背けなかったことも、そのために若くして死んだこともよく似ている。因みに、ヴェイユは、1943年、ナチス・ドイツの占領下で苦しむ同胞の窮迫を思ってほとんど食事を取らず、餓死同様の死を迎えた時、彼女はまだ34歳だった。ボンヘッファーはその2年後、1945年に、39歳でゲシュタポによって処刑されている。

 さて、そのヴェイユであるが、彼女は1941年ごろ、難民救済事業に携わっていたジャン・マリー・ペラン神父と知り合って深い霊的感化を受けた。遂に洗礼は受けなかったが、イエスに深く心を惹かれるようになる。その彼女が、この「二人、または三人がわたしの名によって集るところには、わたしもその中にいるのである」というイエスの言葉に注目して、こう言ったことがある。「イエスは2人、または3人と言われたのであって、200人または300人と言われたのではない」と。この言葉は、私の心に深く刻まれた。念のために、手もとにあるヴェイユ関係の書物に当たってみたのだが、どういうわけか見つからない。しかし、私の記憶は間違っていないと思う。

 彼女が言いたかったことは、「注意力」のことだろう。2人、または3人の場合は、そばにいる人が何を悩み・苦しんでいるかということについて注意が行き届く。だが、200人または300人となると、それは難しい。そして、イエスは、お互いの間で注意力が働いているところ、そこに自分は共にいる、と約束したのだ。イエスご自身が、常に弱い人々・小さな人々に対する注意力を研ぎ澄まして生きた方であった。

 日本のある作家が「鈍感力」という本を書いている。政治家も仲間うちで励まし合うのに、盛んに「鈍感力」の効用を言いたてる。すなわち、民衆やマスメデイアはいろいろ批判的なことを言うが、そんなことをいちいち気にしていては、政治家は勤まらない。蛙の顔に水がかかった程にしゃあしゃあとして居れ。「千万人といえどもわれ往かん」という気概をもって前進あるのみ、というわけである。

 だが、このような「鈍感力」は、エゴイズムとほとんど同じだ。自分のことしか考えない。だから「面の皮を厚く」して、他者の正当な批判にも耳を傾けない。それ故に却って、他者の一寸した言葉にも「過敏」に反応するのである。

 「注意力」はその反対で、「愛」と同じだ。「愛とは、不幸のうちにある愛する人の苦しみを共に分かち合いたいと願うことである」。これもヴェイユの言葉だ。

 前述したように、私たちの教会はこの10年間に量的にも質的にも成長してきた。このことを私は心から感謝しているが、今、創立10周年という記念すべき時に当たって、私たちが先ず自らに言い聞かせるべきことがあるとすれば、それは、どんなに大勢集るようになっても、この「2人、または3人」という在り方を決して忘れてはならない、ということではないだろうか。



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