2007・9・2

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「神は愛である」

村上 伸

エレミヤ書31,1-6;ヨハネの手紙一 4,7-12

 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(7-8節)。これは、まことに単純で偉大な真理である! 世界のすべての人は、ここに立ち返らねばならない。だが、ここで言われている「愛」とは、もちろん、単に「好きになる」という感情のことではない。「愛」とは、自分とは違う他者の存在を認め、その価値を重んじることである。

 旧約聖書の最初に、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)とある。これは神が天と地、光と闇、さまざまな植物、太陽や月や星、魚や鳥、獣や爬虫類、そして人間など――要するにご自分とは違う存在を造られた、ということである。つまり、神はご自分とは違うものが存在することをお許しになったのだ。愛とは、そういうことである。だから、「初めに、神が天地を創造された」というのは、すべては神の愛によって始まったということである。そのことを心に刻み付けながらもう一度ヨハネの言葉を声に出して読んでみよう。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。「愛する」ということの深い意味が、今や明らかである。

 私たちは、ここから出発しなければならない。自分とは考え方も感じ方も違う他者が存在する。そして、その他者にも、自分と同じように、命が与えられている。そのことを認め、大切にすること。他者を自分の思い通りに支配しようとは決して考えないこと。他者の命、他者の権利を認め、それを尊重すること。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節)。これが愛だ。

 先週の日曜日、私はベルリンで礼拝に出かける前に新聞に目を通していた。その時、小さな記事が目に留まった。その日の午後3時から「フィルハーモニー」で、ダニエル・バレンボイムの指揮で「東西ディヴァン・オーケストラ」が演奏する、というのである。私は、これは聞き逃せないと思った。

 「東西ディヴァン・オーケストラ」というのは、ユダヤ人のピアニストで指揮者でもあるダニエル・バレンボイムと、パレスチナ人の思想家で大江健三郎とも親交のあったエドワード・サイード(故人)が協力して創設した管弦楽団である。過去半世紀以上にも及ぶパレスチナ紛争、あの泥沼のような争いの中で、音楽を通じて相互理解と和解を実現できないだろうか? その夢の実現に向けた、これは勇気ある試みである。

今日の世界で、「愛」とは具体的にはこういうことではないか。自分と立場の違う人たちの存在を認め、その人たちの考え方や感じ方を理解したいと願い、多くの違いにもかかわらず共存できると信じて、小さなことからでも何かを一緒に始めること。バレンボイムは言っている。「我々のプロジェクトは、多分、世界を変えることはできないだろう。だが、それは前進するための一歩なのだ」と。

 実際、このオーケストラにはイスラエルとパレスチナ、さらには周辺のアラブ諸国から若い音楽家たちが招かれて参加している。スペインのセヴィリヤにおけるワークショップで訓練を受けて一流の交響楽団に成長し、1999年以降は認められてヨーロッパや南北アメリカ、中東各地で演奏会を開くまでになった。ベルリン・フィルハーモニーで開くのは、昨年のデビュー公演に続いて今年が2回目だという。

 「東西ディヴァン」という名前も、バレンボイムとサイードが語り合い、文豪ゲーテの詩集の名前に因んでつけた。「ディヴァン」というのはペルシャ語で、ゆったりしたソファーのある客間のことらしい。ゲーテは他民族に対して真剣な関心を抱いた最初のドイツ人といわれ、60歳になってからアラビヤ語を学び始めたという。

 さて、コンサートが始まった。最初はモーツアルトの「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットのための協奏交響曲、変ホ長調」(K297b)。4人の管楽器ソリストはイスラエル人とパレスチナ人が二人ずつで、彼らの息の合った演奏はため息が出るほど美しかった。次ぎがアーノルト・シェーンベルクの「オーケストラのための変奏曲」(Op.31)、激しい12音音楽だ。そして最後は、チャイコフスキーの「交響曲第6番ロ短調(悲愴)」(Op.74)であった。一曲終わる度に盛大な拍手が送られたが、バレンボイムはその度に謙虚に指揮台の脇のほうに退き、「この拍手は自分にではなく、これら若い音楽家たちに送られるべきものだ」という態度を示し、自らも拍手を惜しまなかった。彼の楽団員に対する愛は見逃がしようがない。そのことが最もはっきり現れたのが最後の演奏であった。チャイコフスキーのあの曲は、最終楽章で次第に音が小さくなって行き、遂にはすべての音が消える。鳥肌が立つような静寂がしばらく続き、それから爆発的な拍手と「ブラボー」の声が起こった。バレンボイムは何度もステージに呼び戻されたが、拍手は鳴り止まない。すると彼は突然、楽団員の中に入って行ったのである。そして、一人ひとりに声をかけ、手を握り、肩を抱き、女性の頬にはキスをした。一人も洩れなくそれを続けたので、全部終わるまで20分ぐらいかかったろう。しかし、聴衆はその間、総立ちになって拍手を送り続けたのである。

 あの拍手は何だったのか? バレンボイムとサイードがイスラエルとアラブの相互理解と和解を願って双方の若い音楽家たちと共に始めたこの実験。それが見事に実を結んだとことを目の当たりにした感動と感謝、そして、遂には完全な平和(シャローム)が中東に実現するようにという祈りではなかったか。

 この世界には醜いことも悲しいこともあるが、神が愛をもってこの世界を造られたこと、このような形で「世界に愛がやって来る」ことだけは信じていいのである。



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