2007・7・1

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「私たちは主のもの」

村上 伸

イザヤ書49,14-18;ローマの信徒への手紙14,1-12

14章1節に、「信仰の弱い人」という言い方が出てくる。この言葉に抵抗を感じる人もいるかもしれない。「信仰の弱い人」というからには「信仰の強い人」もいることになる。パウロはここで、「信仰の強弱」という物差しを持ち出して教会員を判定し、格差をつけているのではないか? もしそうだとすれば、余り愉快な話ではない。

しかし、ここに書かれている内容をよく読めば、彼は正にそのような「格差づけ」、つまり「差別」に反対していることが分かる。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と言っていることからも、また、そのような人を「軽蔑してはならない」(3節)とか、「裁いてはならない」と命じていることからも、それは明らかであろう。

すると、「信仰の弱い人」というのは、パウロがそう判定しているというのではなく、周りから「<信仰の弱い人>というレッテルを貼られている人」という意味ではないか。あるいは、周りからそう言われて「自分でもそう思い込んでいる人」か。

その辺の事情をもう少し詳しく説明したい。

パウロが宣教活動を行ったのは、異教の世界であった。彼が各地に育てた教会の周囲にも異教の習慣があったから、教会員の中にはその影響から中々脱出できずに、相変わらず「タブー」に縛られて生きている人も少なくなかった。「タブー」とは、『広辞苑』によると、もともとポリネシア語で「聖なる」という意味だという。そこから、「社会的に厳しく禁止される特定の行為」を指すようになった。「禁忌」である。

たとえば、「食べ物」に関しては次のような例がある。――偶像礼拝の際、犠牲として捧げられた動物の肉は、後で市場に払い下げられて売られる。ところが、その肉をどうしても食べることが出来ない人がいた、というのである。1コリント8章7節に、「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に備えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚される」とあるのがそれだ。今日の箇所に、「弱い人は野菜だけを食べている」(2節)とあるのも単なる「ベジタリアン」ではなく、そのことと関係があるかもしれない。

他の問題もある。「ある日を他の日よりも尊ぶ人」 (5節)とあるが、これは、異教の影響で「日の吉凶」にこだわる人のことを指している。日本では「友引」の日には火葬場が使えないが、その類のことがローマやコリントにも多くあった。

この種の「タブー」は、我々が考える以上に強い。ユダヤ教徒やイスラム教徒は豚肉を食べないが、私のドイツ時代の友人に、イスラムからキリスト教に改宗したアフリカ人がいた。一緒にレストランに入って、ハンバーグステーキを注文したことがある。彼は、自分で注文したくせに、材料のひき肉の中に豚が入っていないか気になり始めたらしい。何度もしつこくウエイターに問い質して嫌がられていた。仲間の我々が、「クリスチャンになったのだから、そんなことはもう気にしなくてもいいのではないか」と助け舟を出したところ、「それはダメだ」と言下にはねつけられた。

パウロも、そのような具体的な問題をここで取り上げているのである。

彼の教会の中には、「何を食べても良いと信じている人」(2節)がいた。その人は、主イエスの福音を信じたことによって、それまでの古い「タブー」から解放され、大胆に「わたしには、すべてのことが許されている」1コリント6章12節)と考えるようになった人である。しかし、他方では、相変わらず野菜だけを食べる「弱い人」もいる。そして、この人たちの間にしばしば対立が生まれた。一方が他方を「軽蔑し」、あるいは「裁く」といった関係である。

パウロは戒める。「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(3節)。その根拠として、彼は「神はこのような人をも受け入れられたからです」と言う。これは重要な言葉だ。人間同士の対立を、それだけに囚われて見ていると袋小路に入り込んで行き詰ってしまう。見方を思い切って転換しなければならない。問題は、「私が相手をどう見るか」ということではない。「神はその相手をどう御覧になっているか」ということなのだ。

同じことが「召使い」についても言われている。他人の召使に関する何らかのトラブルがあって、それを裁くようなことを言った人がいたらしい。パウロはそのことをたしなめた後で、「主は、その人を立たせることがおできなる」(4節)と言って、ここでも見方を思い切って転換している。

この転換は、「食べる人は主のために食べる。また、食べない人も、主のために食べない」(6節)というところに最も顕著に現れる。食べる人・食べない人という違いはあるが、双方とも同じように「主なる神によって生かされている」というのだ。

こうして、決定的な言葉が来る。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(7-8節)。

どんな人を見るときも、「キリストはその兄弟のためにも死んでくださった」(15節)という見方を忘れないこと。これは単に個人の間で重要であるばかりではない。国際政治の場でこれが生かされれば、戦争も起きないのではないか。


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