2007・5・20

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「苦難を用いる」

廣石 望

イザヤ書49,1-9;コリントの信徒への手紙二6,1-10

I

 今日のテキストを書いたパウロの略歴を追えば、およそ以下のようになります。

・キリキアのヘレニズム都市タルソスのユダヤ人家庭に生まれる。生年は、一説によるとBC6年頃、つまりナザレのイエスとほぼ同年輩。本名サウル。アラム語・ギリシア語の二言語使用者として育つ。長じてユダヤ教ファリサイ派セクト(民族伝来の口伝律法を遵守する厳格派)に参加。

・AD32年(38歳)頃、異教徒を律法遵守なしに受容するユダヤ教ナザレ派――後のキリスト教のことです――に対してシリア・ダマスカス近郊で暴行行為に及ぶが、突如として同派に転向。ナザレ派の洗礼を受けた後にナバテア王国に赴く。後に帰還してダマスカスのナザレ派共同体に逗留。

・AD34年(40歳)頃、ユダヤ教の聖都エルサレムにナザレ派の首領ペトロを訪ねたのと相前後してダマスカスを去り、故郷キリキアに赴く。

・AD36年(42歳)頃、シリア・アンティオキアのナザレ派共同体に参加し、その後AD49年(55歳)頃までの13年間、主要メンバーとして活動。この間、当教会が敢行したキプロスと小アジア南部へのナザレ派布教活動、および路線対立が表面化したエルサレム系ナザレ派への和解使節団に参加。

・AD49年(55歳)頃、アンティオキアのナザレ派内部で路線対立が再び表面化する。闘争に敗れて当共同体から分離独立した後、AD57年(63歳)頃までの約9年間、「異邦人の使徒」を自称しつつ少数の協力者と共に、シリアから小アジア内陸にかけて、またエーゲ海沿岸の小アジアおよびギリシア諸地域に布教活動を行い、ナザレ派の拠点を次々に設立。そのさい行く先々で現地住民および官憲と衝突を繰り返したのみならず、同信のユダヤ教諸会堂あるいはエルサレム系その他のナザレ派とも対立。この時期に執筆した複数の書簡が現存する。

・AD57年(63歳)頃、独立布教活動を通して入手した資金を携えて、反ローマ感情の高まりつつあるエルサレムに赴く。当地のナザレ派は義援金の受け取りを拒否。ローマ占領軍によって身柄を拘束され、軍駐屯地カイザリアに幽閉される。

・AD60年(66歳)頃、カイザリア駐屯のローマ占領軍によって身柄を帝都ローマに移される。

・AD62年(68歳)頃、ローマにておそらく獄死(刑死?)。既婚暦なし。子なし。

 皆さん、どのような印象をお受けになったでしょうか。パウロは、古代におけるユダヤ民族主義の〈変り種〉です。分別盛りの成人期に、ユダヤ教内部でファリサイ派からナザレ派に転向を遂げています。そして彼は、東地中海世界におけるヘブライズムとヘレニズムの架橋者の一人として生きました。彼は旅に生きた人でもありました。故郷にはほとんど帰っていません。また、その人生は波乱万丈です。55歳から63歳くらいまでの間、独立して布教活動を行っています。現在でいえばほとんど70歳代の活動と言ってもよい年齢です。たいへんなエネルギーだと思います。68歳くらいで亡くなったとすると、古代人にしてはかなり長命です。最期は悲劇的なものであったと思われます。

II

 パウロの人生は苦難に溢れています。ユダヤ教内部で転向したこと、布教活動における現地住民、ユダヤ教会堂およびナザレ派(キリスト教)内部の葛藤、さらにローマ帝国の圧力なども作用しています。今日のテキストで、彼自身が「苦難、欠乏、行き詰まり」「鞭打ち、監禁、暴動」「労苦、不眠、飢餓」と列挙している通りです(4-5節)。そして自分の人生が傍目から見てどのようなものであるかも、パウロはよく分かっていました。「人を欺いている」(8節――原文は「惑わす者たちである」)、「人に知られていない」「死にかかっている」(原文は「死んでいる」)「罰せられている」(9節)、「悲しんでいる」「物乞いである」「無一物である」(10節)――これらすべては、パウロがこの手紙を書いていたときも、事実その通りであったのだろうと思います。

 

III

 なぜパウロの活動は、「好評」と同時に「悪評」(8節)を引き起こしたのでしょうか。「悪評」の理由は、比較的に簡単に想像がつきます。

 ユダヤ教からの悪評は、パウロが異邦人の改宗者にユダヤ民族伝来の生活様式である「律法」を課さなかったから、つまり民族主義に反する「非国民」であったからです。そもそもパウロは、ナザレのイエスが「十字架」の死という呪われた死を死んだことに、神の新しい啓示を見ました。しかし一般ユダヤ人にとって「十字架にかけられたメシア」という表現は、形容矛盾でしかありえなかったと思います。

 現地住民にとっては、父祖伝来の神々を否定する一神教のみならず、パウロが伝えた「もはや、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラ3,28)という考えは、家族や地域共同体の秩序を乱すものと受け止められたことでしょう。

 ローマ帝国からは、国家反逆罪に問われて処刑されたガリラヤ人を「メシア」を仰ぐ連中は、潜在的な反ローマ主義者、騒乱を引き起こす危険性の高いユダヤ人集団と見られた可能性があります。

 しかし悪評の根源的な理由は、パウロが宣教した神との「和解」の福音が、悔い改めと罪責の承認を含むものであったことにあると思います。私たちは自らの罪責を認めたがらないものです。しかも私たちの社会では「和解」とは示談のこと、つまりある種の取り引きです。しかし神との「和解」は取り引きではありえません。取り引きに応じず、罪責の告白に至る「和解」の福音――これが悪評の根本原因であると思います。この点は、現在も変わりがありません。

それでもパウロの福音が「好評」をも博した理由は何でしょうか。彼自身がこう言っています、「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力」(6-7節)。これが福音の魅力でした。今もそうです。

IV

 自分の力では、とりあえずどうすることもできない苦難の中で、人はどう反応するでしょうか。

最近、ある学生の手記を読む機会がありました。その方は元気いっぱいの高校生のとき、突然に聴力を失うという辛い経験をしました。激しいめまいのせいで、まっすぐ歩くことすら不自由になったそうです。降ってわいたような不幸に直面して、彼女は混乱します。そして「これは私の身に生じていることではない」「これは私じゃない」と必死で自分に言い聞かせていたそうです。

 予期せぬ苦難に出会ったとき、この現実を主観的に否定することで必要以上に精神的なダメージを受けるのを防ごうとするのは、きっと私たち皆がもっている心理的メカニズムなのでしょう。

V

 では、パウロはどうしたでしょうか。じつは彼も、先に述べたような「苦難」から、独特の仕方で主観的な距離をとっています。

 彼は、自分たちは「人を欺いているようでいて」というのに直ちに続けて「誠実であり」(8節)と言い直しています。もっとも、この部分の原文を直訳すると、「人を惑わす者として、かつ本物であり」となります。「〜のようでいて」という翻訳よりも迫力を感じます。以下に続けて、「私たちは無名な者たちとして、かつ認知された者であり / 死んだ者たちとして、かつ見よ、私たちは生きている!/ 懲らしめられた者たちとして、かつ殺されることのない者であり」(9節)、「悲しむ者たちとして、しかし常に喜びつつ / 物乞いとして、しかし多くの人々を富ませつつ / 無一文として、かつ万物を手中に収めつつ」(10節)。――これらの「〜として、かつ〜であり」という一連の発言は、パウロが世間からよせられた「悪評」を事実その通りと認めた上で、みごとにその事実から主観的な距離を持ちえていることを示しています。

 パウロはなぜ事実をそれとして認めることができたのでしょうか。おそらくそれは、パウロが実際にその通りである過酷な現実にすっかり所有されてしまい、この現実にいいように翻弄されるかもしれない、という不安から解放されているからだと思います。なぜ、パウロにそれが可能であったのでしょうか。それはパウロが、十字架にかけられた苦難のイエスを神の啓示として経験したからです。だからこそ彼は、自らの苦難をも宣教の道具として「用いる」ことができました。彼は過酷な現実そのものを指差して、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2節)と言い切っているではありませんか! 苦難とは神の「恵み」が働くための道具なのです。

パウロがキリストから聞き取ったという言葉が伝えられています、「私の恵みはあなたにとって十分である。力は、さまざまな弱さの中で完成に達する」(2コリ12,9参照)。私たちもまた、それぞれの苦難、他人には言えない苦しみの中にあっても、それを隠すよりは、むしろそれを「用いる」ことで持ちこたえ、乗りこえてゆくことができますように!



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