2007・4・15

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「平和があるように」

村上 伸

イザヤ書 40,27-31;ヨハネ福音書 20,19-23

 主イエスは、復活日の夕方弟子たちに現れた。そのとき、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)とヨハネは書いている。イエスの処刑はユダヤ教の指導者たちが決めたことだから、弟子たちが彼らを恐れたのも当然である。鍵をかけた家の中で、彼らは息を潜めていた。

 ある注解書によると、ヨハネ福音書が書かれる少し前の紀元87年に、ユダヤ教指導部はユダヤ教会堂(シナゴグ)で捧げる祈りに「キリスト教徒への呪い」を加えることを決めた、という。次いで90年、ファリサイ派の主導で開かれた「ヤムニア会議」では、キリスト教は異端であると宣言された。弟子たちが「ユダヤ人を恐れた」という言葉にはこうした事実も反映されているかもしれない、と注解者は言う。

 伝統を重んずるユダヤ教から見れば、イエスの影響の下に成立した「キリスト教」なるものは、モーセ律法を曲げて解釈する怪しげな新興宗教であった。だから、イエス一人を殺すだけでは十分ではなく、「キリスト教」そのものを根絶やしにすべきだと彼らは考えたであろう。このような宗教的権力の側からの敵意が弟子たちを脅かしていた。それが弟子たちの「恐れ」の最大の理由である。

 こうした権力に対する「恐れ」は、歴史上しばしば見られた。代表的な例はローマ帝国に対するものであろう。第4世紀にローマ皇帝コンスタンティーヌスによって公認される迄、キリスト教は300年近くの間、断続的に激しい迫害を受けた。その間、キリスト教徒はローマの権力を恐れて、地下の墓穴(カタコンベ)でひそかに礼拝を守っていた。私たちの教会の門の上に飾られた「魚」(イクトゥス)のエンブレムは、その時代にキリスト教徒によって用いられた暗号である。それによってキリスト教徒は自分たちの信仰を告白すると共に、互いに仲間を認識し合ったのだ。

 同様の例は日本にもある。切支丹は徳川幕府の下で仮借ない迫害を受け、それは約300年間も続いた。彼らは露見することを恐れて「隠れ切支丹」という形で信仰を守り通した。ミサや典礼は、巧妙に隠された形で続けられた。その時代に彼らが生み出したさまざまな物が残っている。切支丹の武士が刀の鍔に巧妙に彫らせた十字架の文様、外部の人には見えないように壁に塗り込められた十字架、マリア観音、等々。

 だが、権力に対する「恐れ」とは別に、もっと内面的な「恐れ」もあったであろう。今日のテキストに話を戻すと、そこにいた弟子たちは、イエスが捕らえられたとき、皆、イエスを見捨てて逃げてしまったという経験をしている。これは弟子たちの心の内面に深い「恐れ」を植えつけた。そのような内面を表現した歌がアフロ・アメリカン霊歌にある。「あなたもそこにいたのか / 彼らが主を十字架につけたとき / ああ、いま思いだすと / 深い深い罪に / わたしはふるえてくる」(讃美歌306番)。

 このように、弟子たちは内にも外にも「恐れ」を持っていた。彼らはそれに怯えていたであろう。だが、復活の主イエスは、その弟子たちの「真ん中に」(19節)立った、と福音書は告げる。そして、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

「平和」(シャローム)! これは、ユダヤの日常生活では「こんにちは」程度の挨拶だが、イエスがここで二度も同じ言葉を繰り返したこと、しかも、その時、「手とわき腹とを」(20節)見せるという意味深長な仕草をしたことから判断して、単なる日常の挨拶とは思われない。言うまでもなく、「手とわき腹」は十字架につけられたときに釘と槍によって穿たれた傷跡である。それを見せることによって、主は「あなたがたが見捨てた私、そのためにあの苦しみを受けて死んだ私が、今、あなたがたのところに戻って来た」ということを伝えようとしたのである。恐れなくてもいい。私はあなたがたの罪を赦す。外からの恐怖に怯え、内に深い罪の恐れを抱いているあなたがたのような人とも神は共におられる。だから安心しなさい。平和があるように!

 そして、復活の主は続けてこう言われた。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。そして、「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(22節)。

 聖霊とは、目には見えない神の「いのちの力」である。その「いのちの力」が、今、新しい使命のために派遣される弟子たちに与えられる。それは、罪の赦しの力である。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23節)。

 先週のイースターフェスタでは、志ん軽さんの「福音落語」と中高生による「斉門岩之助の改悛」という芝居があって、大いに楽しませてくれたが、二つとも期せずしてヨハネ福音書21章がテーマで、主イエスを裏切ったシモン・ペトロの悔い改めの話だった。私たちは楽しみながらも聖書の福音についてあらためて考えさせられた。

 先ほど引用した霊歌を思い出す。「あなたもそこにいたのか / 彼らが主を十字架につけたとき」。ペトロは正にそこにいたのである。そして、三度、イエスを知らないと言ってしまった。「ああ、いま思いだすと / 深いふかい罪に / わたしはふるえてくる」。この罪の意識は、生涯ペトロから離れなかった。後にローマで捕らえられて処刑されることになったとき、彼は「主イエスと同じ形で十字架に掛けられるのは恐れ多いから、逆さ磔にして下さい」と願って聞き届けられ、仲間の信徒たちを励ましながら殉教の死を遂げたと、シェーンキヴィッチ『クオ・ヴァディス』は書いている。

 だが、復活の主は、その彼を、そしてすべての臆病だった弟子たちを赦される。そして彼らにも罪の赦しの力を与えて、この世に派遣されたのである。

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