2007・3・25

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「地の塩、世の光」

村上 伸

イザヤ書2,1-5;マタイ福音書5,13-16

 私たちの「代々木上原教会」は、今から10年前に旧・上原教会と旧・みくに伝道所が合同して活動を始めた全く新しい教会である。発足に当たり、私たちは熟慮を重ねた末、先ず「宣教基本方針」を定めた。その中に、『戦争責任告白』を重んじてその実質化のために努力する」という文言が盛り込まれた。ここで言う「戦争責任告白」とは、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」のことである。今日の週報の裏に印刷してあるから参照して頂きたい。

この「戦争責任告白」は、1966年秋に教団総会議長に選ばれた故・鈴木正久牧師が常議員会の委託を受けて執筆し、翌1967年の復活主日(3月26日)に発表したもので、明日がその40周年の記念日に当たる。そこで私たちは、一番近い今日の主日に記念の礼拝をささげ、共にこの告白の意味を考えたいと思ったわけである。

 最初に2番目の段落に注目したい。そこでは日本基督教団成立の事情を簡潔にまとめて、「政府はそのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました」と言っている。教団の成立に際しては、教会の側にも内発的な動機がなかったわけではないが、決定的に強く働いたのは政府の要求であり、それに従順であろうとする教会の妥協的な姿勢であった。つまり、神の意志よりも政府の命令をそのまま受け入れ、黙ってそれに従ってしまった。これがあの時代の日本の教会の「弱さとあやまち」であったと告白文は言うのである。

この箇所は、現代の私たちにとっても重要である。私たちは「納税」その他、市民の義務を持っており、余程のことがない限り政府の求めには従う。だが、神がすべての人に与えられた「いのちの尊厳」を脅かす人権侵害や戦争を政府が黙認したり、あるいは自らそれを始めたりした時は、教会は「まさに国を愛する故にこそ」政府に対して警告を発し(「見張り」の使命)、場合によっては、使徒ペトロが「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」使徒言行録5章29節)と言ったように、神の戒めに従うために政府の意向に逆らうことがあり得る。教会は、突き詰めたところ「頭なるキリスト」に従うのである。そのキリストを裏切ったのが戦時中の日本基督教団の「弱さとあやまち」であった。こんなことは二度と繰り返したくないと切に願う。

 このことは、告白文の次の段落で一層明確に、具体的に言われている。「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした」。ここで「あの戦争」と言われているのは、無論、第二次世界大戦のことだが、単に米英を相手にした戦争というよりも、重点はむしろ1937年7月7日の盧溝橋事件以降、日本が中国で始めた全面的な侵略戦争にある。あの戦争を「教団の名において是認し、支持し、その勝利のために祈り努め」たのは、重大な罪だった、と告白文は言うのである。

 こうして、この告白は核心部分に至る。「まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもってこの罪を懺悔し、主のゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります」。

 

ところで、「教会が自らの罪を認めて赦しを乞う」ことの意味は何か?

中世の西洋においては、キリスト教はいわば「唯一絶対の宗教」であった。ローマ教皇は皇帝に王冠を授ける「神の代理人」であり、キリスト教的ヨーロッパ全体の倫理・道徳の源であり、社会を支える権威そのものであった。従って、「教皇は無謬」でなければならず、このような教皇の下にある教会も「栄光の教会」でなければならなかった。教会が自らの罪や過ちを公に告白して赦しを乞うなどということはあり得なかったのである。教会は、壮麗な礼拝堂や数々の画像を金や宝石で飾り立てたが、それも「栄光の教会」を自力で保ち続けようとする努力に他ならなかった。そして、このような自己正当化・自己栄光化が、偽善と腐敗堕落を生んだのである。

しかし、宗教改革(16世紀)によって事情は一変する。マルチン・ルターは、自己の罪を深く知り、そのような罪人である自分が「ただ神の恵みにより、それを信ずることによって義とされる」という真理(信仰義認)に目覚めた。それ以来、人は「罪人であってしかも義人」であるという認識が次第に根づいた。教会も、もはや「栄光の教会」である必要はない。「罪人の教会」であってもいい。もし真実に悔い改めるなら、神はキリストの故に赦して下さるであろう。このように、「栄光の教会」から「義とされる罪人の教会」へと、考え方は変わったのだ。

しかし、古来、礼拝の中ではいつも「わが罪」(クルパ・メア)が告白され、「主よ、憐れみたまえ」(キリエ・エレイソン)が歌われて来た。それは宗教改革のときに始まったのではなく、もっと古くからキリスト教の最も大切な遺産として代々受け継がれてきたものなのである。教会は「栄光の教会」ではない。「クルパ・メア」と告白し、「キリエ・エレイソン」と歌う「罪人の教会」であり、ただ「神の恵みによって」のみ立つ教会である。そして、そこにこそ教会の真実がある。

それ故に、教会は「罪責の告白」をしたからと言って、信頼性を損なうことはない。むしろ逆だ。「罪責の告白をしようとしない」教会、ただ自己正当化だけを追求する教会こそ、信頼を失うのである。同じことは国家についても言えるであろう。私たちは今日、このことを心に刻み、「地の塩、世の光」として歩み続けたいと願う。

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