2007・3・18

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「一粒の麦」

廣石 望

エゼキエル書18,30-32;ヨハネ福音書12,20-26

I

 受難節第四主日である今朝のために選ばれたテキストは、有名な「一粒の麦」についてのイエスの言葉をふくむヨハネ福音書の箇所です。年配の方々の中には、格調高い文語訳で暗唱しておられる方もあるでしょう。「誠にまことに汝らに告ぐ。一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」(24節)。

 この言葉でイエスは間近にせまった自らの死の運命を自覚し、その意味について語っているようです。では自分が死ねばもたらされるとイエスのいう、「多くの実」とは何なのでしょうか。他方、私たちのまわりにも死はあります。やがて私たち自身も、いつかは死んでゆく。さらにイエスは言います、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)。いったい私たち自身の死の意味あるいは命の意味とは何なのでしょうか?

II

 ヨハネ福音書によれば、これらのイエスの言葉は、「何人かのギリシア人」(20節)がイエスに会いたいと願い出たことをめぐって、イエスが弟子たちに語った言葉の中に現われます。

 ギリシア人たちは、ユダヤ教の巡礼祭に、神殿で神を礼拝し犠牲を捧げるために上京しています。おそらく生まれは異教徒であったが後にユダヤ教徒に入信した「改宗者」です。あるいは割礼は受けていないものの、実際にはユダヤ教の神を信じて会堂での礼拝に参加した「神を畏れる者たち」と呼ばれた人であるかも知れません。直前の文脈には、「世をあげてあの男について行ったではないか」(12,19)というファリサイ派の人々の発言が現われます。すると、この「何人かのギリシア人」とは、ヨハネ共同体が目前に見ている「世」の、より具体的には異邦人世界の代表です。私たちもまた、ユダヤ教徒に生まれたわけではありませんが、何かしらイエスに惹かれるところがあって教会に来ました。

 彼らは、例えば夜に一人でイエスに会いに行ったニコデモのように(3,1以下)直接イエスのもとを訪ねたりせず、弟子のフィリポに取り次ぎを頼みます(21節)。すると奇妙なことにフィリポは弟子仲間のアンデレにこれを伝え、二人そろってイエスのもとに行ってギリシア人たちの願いを伝えます(22節)。イエスに辿りつくまで、ずいぶんかかりますね。この演出は、イエスに会いたければ使徒たちを介して、具体的にはイエスに従って生きているヨハネ教団の人々を介して会いなさいという意味だろうと思います。

 さらに興味深いことに、ギリシア人たちがイエスに会えたかどうか、ヨハネ福音書の先を読んでも何も書いてありません。じつは、イエスがフィリポとアンデレに与えた返答そのものが、もはや地上のイエスに出会うことはできないが、それでもイエスに出会うことはどのようにして可能かという問いに答えるものになっています。「人の子が栄光を受ける時がきた」(23節)とは、イエスの死の時がきたという意味です。ですから、ギリシア人たちは生前のイエスに直接会うことはできません。彼らが出会うことのできるイエスとは、死んで復活し、天に上げられたイエスだけです。そしてそのようなイエスに出会う道は、イエスに仕えて彼に従うことで、イエスの父なる神との霊的な交流に歩み入ることです(26節)。私たちもイエスに仕え従うならば、いまここで神との交わりの中でイエスに出会うことができます。

 「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」(24節)とあるのは、種が地中で発芽する前にかたちを変えるのを、種がいったん死んで腐ってゆくプロセスと見ているからです。そうしてもたらされる「多くの実」とは、具体的にはヨハネ共同体のメンバーのことです。イエスは死に、その結果イエスを信じる者たちの共同体が生まれた、イエスの死の瞬間が私たちの誕生の瞬間だ、という理解がそこにあります。

 この段落のイエスの発言、そしてギリシア人がイエスとの面会を求めたという構成の全体は、イエスの死というできごとを経験し、その意味を問い続けた人々が、天に上げられたイエスとの霊的なつながりの中で初めて見出した答えを映し出しています。

III

 イエスの死の意味は、自分たち信仰者が誕生するためであったとヨハネ福音書は理解しています。このことは、私たちが人の死の意味について考えるとき、たいへん示唆に富んでいます。

 身近な人の死に接すると、私たちは衝撃を受けます。そして「なぜ」と問うのです。告別式の祈りでは、「私たちには量り知ることのできない深い御旨によって、あなたはこの人を御許に召された」と祈られます。そして故人とのお別れを通して私たちは、亡くなった人が私たちにたくさんよいことを残して行ったことを思って感謝します。「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」とは、その人が私という存在を支えた、私という存在を与えてくれたという感謝と結びついています。

 しかし他方で、この世界には容易に納得しがたい死があります。交通事故や火災、病気、自然災害による死があり、犯罪による死、幼い子どもたちに対する虐待による死、戦争や虐殺、栄養失調のための死があり、またHIV/AIDSによる死があります。イエスの十字架の死も、そうした容易に納得しがたい、数知れぬ悲惨な死の一つでした。歴史的には、おそらくイエス自身も、自分の死が何のためなのか理解できないままに死んでいます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15,34)。

IV

 ここでヨハネ福音書は、おそらくイエス自身に遡る印象的な言葉を(マルコ8,35マタイ10,39並行ルカ17,33)、自分なりに言い換えて引用します。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)。

 この言葉は、命というものについて深い洞察を含んでいます。そもそも命とは、私が自分は何のために生き、そして死ぬのかという問いを発するに先んじて、私に与えられています。そして私たちの人生は、しばしば思い通り・期待通りにはなりません。私たちは他人や自分の生を意のままにコントロールすることはできないのです。だからこそイエスも、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(ルカ12,22)と教えています。

 さらに注目していただきたいのは、このヨハネのイエスの言葉において、この世における「命」(プシュケー)と「永遠の命」(ゾーエー)とでは、「命」について別のギリシア語の単語が用いられていることです。プシュケーとは個別的な命のこと、ゾーエーとは命のクオリティのことです。自分の個別的な命に固執する者は、それを最終的には死に際して失うが、この世で自分の個別的な命を最優先しない者は、かえってその命を保ち、最終的には神が与える命のクオリティへと開かれてゆく、という意味だと思います。

V

 「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(26節)という言葉は、そのことを示しています。

 私は昨年と同様、この春休みに、学生たちを引率して17日間、インド・ケララ州のキリスト教系NGOである「SEEDS India」を訪問しました。SEEDSとはSocio - Economic Educational Development Service」(社会経済的・教育的開発支援)の略号ですが、「種」という名称そのものが今日の聖書箇所との結びつきを感じさせます。

 この団体はキリスト教精神に基づいて、ダリットと呼ばれるいわゆる不可触賎民のためのさまざまな支援、親元で暮らすことのできない子どもたちのための養児院、聴覚障がいを持つ人々のための教会の支援、公立病院に入院して寝泊りしている人々とその近親者のための毎日の炊き出しなどを行っています。代表であるトマス・マシューさんは核兵器廃絶のための国際運動に連なっています。彼はアジア学院の卒業生で、広島からインドに初めて被爆者を実際に招きました。それがきっかけとなって彼は、カルカッタでマザー・テレサに個人的に面会しています。またこの方は宗教間の自由のための国際委員会の副議長としてヒンズー教やイスラム教の指導者たちとも親交があり、私たちは彼の紹介で――ちょうどギリシア人たちの願いをフィリポやアンデレが取り次いだように!――イスラム教の修道院やヒンズー教の寺院の中まで入れてもらいました。

 彼のお母さんが昨年亡くなりました。今回彼に出会ったとき、まっさきにお悔やみを申し上げると、次のようなお母さんの思い出話をしてくれました。彼の家は決して裕福ではなかったけれど、お母さまは夕食のときには、いつもまず夫や子どもたちに食べさせ、自分は食べないでとりわけておいた。そして後から、毎晩台所の裏口にやってくる近所の極貧層の人たちと一緒に食べておられたのだそうです。だから私は、キリスト教とは人々と一緒に生きることであると母を通して学んだとトマス・マシューさんは言われました。

 「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」(26節)。――ヨハネのイエスは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13,34)と教えたのではありませんか。「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(12,26)。イエスに従って生きる者をイエスの父なる神が大切にして下さるとは、私たちが互いに愛し合い、助け合うことで、私たちの間にイエスの父なる神の愛が実現されていること以外の何を意味するでしょうか。

 「誠にまことに汝らに告ぐ。一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」。私たちそれぞれに与えられた個別的な命を、イエスの死によって与えられた「実り」と受け止めつつ、神が与える永遠の命に向けて自らを開きたいと願います。

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