2007・3・4

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「イエスとこの世」

村上 伸

イザヤ書5,1-7;マルコ福音書12,1-12

 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」(1節)とある。この「彼ら」とは誰のことだろうか? イエスは誰に向かって話したのだろうか?

 この直前の「権威についての問答」(11章27-33節)という所を読むと、イエスと祭司長・律法学者・長老たちとの間にちょっとした論争があったことが分かる。彼らは、イエスが「神殿から商人を追い出す」(11章15節以下)という思い切った行動に出たために腹を立て、ちょうど神殿の境内を歩いていたイエスを呼びとめて、「何の権威で、このようなことをしているのか。誰が、そうする権威を与えたのか」(28節)と詰問した。イエスは一介の放浪説教者に過ぎないが、彼らをやり込めた。その後にこの譬えが出て来るわけだから、ここで「彼ら」と言われているのは、明らかに祭司長・律法学者・長老たちである。

 さて、そのたとえ話というのはこうだ。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てた」(1節後半)。パレスチナ地方ではこれが普通のぶどう園の作り方で、今も変わらないという。先ほど読んだイザヤ書5章にもよく似た表現があった。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り…」(2節)。そして、預言者イザヤは、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」であるという説明を加えている(7節)。万軍の主なる神がイスラエル民族を選んでご自分のぶどう畑とし、そこに良いぶどうが実ることを期待していたのに、実ったのは酸っぱいぶどうだけであった、このように神の期待を裏切った民族には神の裁きが下る、というのである。

 イエスがこの譬えを語られた時、イザヤ書5章を念頭に置いておられたことは確かであろう。ただ、イエスの譬えでは、その後の話の展開がかなり違っていて、重点はイザヤのように「良い実を結ばなかったイスラエル民族には神の裁きが下る」というところよりは、むしろ、祭司長・律法学者・長老たちを批判する所にある。イエスは「最高法院」(サンヘドリン)の権威を代表する彼らを批判したのである。

 イエスは次のように続けた。ぶどう園を作った人(=神)は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」(1節)。イエスの時代、ガリラヤでは外国人が広い土地を持ち、ユダヤ人にそれを貸すことが多かった。その習慣がここには反映されていると思われる。ただ、「旅に出た」というのはやや大げさで、要するに「不在地主」である。この地主が、「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った」(2節)。ところが、農夫たちは期待に反して「この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」(3節)。地主は何度か他の僕を送ったが、その度に農夫たちは、やって来た僕に暴行を加え、あるいは殺した。明白な反逆だ。

 さて、その地主には「愛する息子がいた」(6節)。彼は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(6節)と考えて、最後にその息子を遣わした。すると、農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」(7節)と言って彼を殺し、「ぶどう園の外へほうり出してしまった」(8節)。

 話をそこまで聞いていた祭司長・律法学者・長老たちは、「無礼な!」と激昂したであろう。「イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた」(12節)。

 いったい、イエスは何ゆえに祭司長・律法学者・長老たちをあの「ひどい農夫たち」になぞらえたのだろうか? 彼らはそんなに乱暴な、悪辣な行動をしただろうか?

 否、そういう事実はない。彼らは、律法の一点一画に至るまできちんと守っており、それを人にも教える立場にあった。誰が見ても彼らは「正しい」し、彼らもまた、自分たちの正義を誇っていた。

 だが、正にそこに最大の問題があることをイエスは見抜いていたのである。この世界では、人はしばしば「正義」を旗印にして人を殺す。あらゆる戦争は、「正義」の名の下に行われた。イラク戦争も例外ではない。また、法を代弁する人たちはしばしば「法」の名において弱い者を追いつめ、そのいのちを奪うようなことをする。これがこの世界である。その意味で、祭司長・律法学者・長老たちはこの世界の代表であった。イエスが彼らに批判の矛先を向けたのは、そのためである。

 彼らは律法を守っていると言うが、実は人間が決めた条文に囚われているだけで「(真の)神の掟をないがしろに」(マルコ7章8節)している、とイエスは言う。福音書を読むと、彼がこのような在り方を繰り返し批判し、告発していることが分かる。

 一つだけ例を挙げよう。イエスが麦畑の傍を通っていた時、お腹を空かせた弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことがある。その日が安息日であったために、ファリサイ派の人々がこれを咎めた。その時、彼はこう答えた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2章27節)。

 これがイエスの基本的な姿勢なのである。これを最もよく表わしているのは、彼がすべての律法の中から最も重要な掟として「神への愛」「隣人への愛」の二つを選んだという事実であろう(12章28節以下)。

 愛。すべてのいのちへの愛。特に、困窮の中にあって苦しんでいる人々への愛。イエスにとっては、それが何にも勝って大切であって、それに優先する掟はなかった。彼は生涯この愛に生き、そして、そのためにご自分の命を捧げられた。

 受難節に当たって、私たちはこのことを深く心に刻みたい。

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