2007・2・18

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「たとえ全世界を手に入れても」

村上 伸

ホセア書 6,1-3;マルコ福音書 8,31-38

 今週の水曜日から受難節(レント)に入る。復活祭前のこの40日間は、教会にとってまことに大切な時である。世間では「カーニバル」などと浮かれているが、私たちはそれには目もくれず、イエスの苦しみを偲びながら静かに日々を過ごす。礼拝説教でもイエスの受難に関係した箇所を多くテキストとして取り上げる。今日の箇所もその一つで、彼の受難と復活に関する最初の予告である。

 「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(31節)。

 「長老・祭司長・律法学者」は、福音書にしばしば登場する。当時このトリオは、ユダヤの「最高法院」(サンヘドリン)の最も重要なメンバーであった。地位も名誉もあり、金も自由になり、従って権力も持つこれらの人たちが、何一つ持たない放浪の説教者イエスを殺そうと躍起になったのは何故だろうか?

 「最高法院」の起源はモーセの頃に遡るが(民数記11,16)、イエスの時代には70人の議員を有する大きな機構であった。その中には祭司やサドカイ派の貴族、ファリサイ派の律法学者たちも入り、大祭司が議長である。この最高法院は「モーセ律法」に基づいて裁判を行い、重大な律法違反の罪を犯した者に対しては、死刑を言い渡すことも出来た。いわば「宗教裁判所」である。だが、それだけではない。

 当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあったが、「最高法院」はその下で行政の責任を担い、税金徴収の権限や警察力も持っていた。だから、それは単純な「宗教裁判所」というよりは、むしろ「自治政府」のような機構だったのである。日本の制度に置き換えるなら、「国会」と「政府」と「最高裁判所」を兼ねたようなものだ。

 このように大きな権力機構が、イエスを排斥して殺そうとした。それは何故か?

 イエスは、宣教開始の当初から、実際に苦しんでいる一人ひとりの人間を大切にし、彼らを助けて生かすために活動した。むろん、「モーセ律法」は重んじたが、「山上の説教」を読めば分かるように、その条文を杓子定規に守るよりも、その精神を生かそうとし、そのためには形の上で「律法を破る」ことも辞さなかったのである。

 だが、これは「最高法院」を代表する権力者の目には、神聖な律法を「冒涜」する行為と映った。権力は、どこの国でも大抵そうだが、「法律によって秩序を守る」という発想が強いために、現実の人間に対する目が曇り易い。先週まで、『朝日新聞』夕刊の「人脈記」という欄に、弱者の立場に立って働く弁護士たちの話が連載されていたが、こういう尊敬すべき働きは、権力側からは得てして「目の敵」にされる。

 イエスの場合もそうであった。彼は現実に苦しんでいる人間への愛のためには、律法違反という理由で咎められることも厭わなかった。律法が触れることを禁じていた「重い皮膚病の人」に触って直したのも(マルコ1,40-45)、医療行為を禁止されていた「安息日に」病人を癒したのも(同3,1-6)、その好例である。愛のために、彼は敢えて「罪人」の汚名をかぶり、「罪を引き受けた」(ボンヘッファー)のであった。

 だから「最高法院」側の人々は、イエスは社会の秩序を乱す危険分子だと考えたのであろう。事毎にイエスに「律法違反」の疑いをかけ、底意地の悪い目で彼の動きを追っていた。そして、過越祭の二日前に、その敵意は露骨になる。「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えた」(14,1)。この企ては計画通りに実行され、イエスは「最高法院」で裁判にかけられ(14,53以下)、「神を冒涜した」という理由で死刑判決を受けるに至る(14,64)。

 だが、イエスはこのことを覚悟していた。31節「必ず」と言われている。原文の「デイ」というギリシャ語は、神の必然性を表わす言葉だ。この世に神の真実の支配、愛の支配を来たらせるためには、誰かがこの苦しみを背負わねばならない。それは、「必ずそうあらねばならないもの」として神が定められた道である。この道は避けることができない。そして、誰かがこの苦しみを背負うべきであるならば、それは第一に自分でなければならない。イエスはそう心に決めておられた。だから、ペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16,22)とイエスをいさめ始めた時、彼は強い言葉でペトロを叱責したのだ。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8,33)。

 その後で、イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(34節)と言われた。これは、「あなたたちには苦労をかけるかもしれないが、それでも頑張って私について来なさい」という程度のことではない。むしろ、こういう意味だ。――イエスは、この世で蔑まれ、虐げられている最も小さい人々を真に大切にされた。たとえご自分が「罪人」の汚名を着せられることになっても、彼らの人としての尊厳を擁護された。そのイエスのように生きるとき、初めて真の祝福を与えられる!

そんな生き方をしたら一切を失うのではないか、と恐れる人もいるであろう。「自分が生きていくためには、背に腹は代えられない、他人のことは後回しだ」というような原始的な自己中心主義(エゴイズム)が相変わらず幅を利かせているこの世においては、イエスに従って生きる道は険しい受難の道、十字架への道かもしれない。

 だが、逆なのだ。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(36節)。エゴイズムによって全世界を手に入れたとしても、そのような世界は、既に生きるに価しないものになってしまっている、とイエスは言われる。現在の地球環境の惨めな状況は、その何よりの証拠ではないか。

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