2007・2・11

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「種を蒔く」

村上 伸

エレミヤ書4,3-4;ルカ福音書8,4-8

これは良く知られた「種蒔き」の譬えである。原型はマルコ福音書4章3節以下にある。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった」。この後にたとえを用いて話す「理由」10-13節)が挙げられ、さらにたとえの「意味を説明する」文章(13-20節)が続く。これが、もともとのマルコの構成で、マタイとルカはこの構成をほぼ原型のまま用いている。だが、今日はルカのテキストによって考えたい。

ルカでは、こうなっている。「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は、石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、100倍の実を結んだ」8節)。必要な説明を付け加えた所もあるが、全体としては、マルコの「贅肉をそぎ落として」、ずっと「すっきりした」感じになっている。

さて、この譬えで、イエスは何を言おうとしているのだろうか? イエスの譬えは、たとえば「イソップの寓話」(紀元前6世紀)のようなものだろうか? 「寓話」の目的は、幸福・不幸・勤勉・怠惰・正直・嘘・誠実さ・裏切りといったさまざまな人生経験を、面白おかしく、時には皮肉っぽく語って、読者に「人生の知恵」を教えることにある。イエスの譬えにも、それと似た所がないわけではない。11節以下で、「種は神の言葉である」11節)から始まって、「道端のものとは・・・」、「石地のものとは・・・」、「茨の中に落ちたのは・・・」、そして「良い地に落ちたのは・・・」という風に、いちいち何かに当てはめて「寓喩的」(アレゴリカル)に説明しているからである。

だが、そもそもイエスの本来の意図は「寓話」を語ることにはなかった。そのことは、この直前の段落で、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせた」8章1節)と言われていることからも明らかだ。

この「神の国の福音を告げ知らせる」ことこそ、イエスのあらゆる言葉や行動の中心にある意図、また目標だったのである。彼が「譬え」を語ったり、数々の「奇跡」を行ったりしたのは、ただ、この「神の国の福音を告げ知らせる」ためであった。その点でイエスの譬えは「寓話」とは決定的に違う。彼は、一般的な「人生の知恵」を示そうとしたわけではなく、「神の国の福音」を告げることに集中していた。神の国(=神の真実の支配)が近づいている、いや、それは既に人々の中で始まっている、ということを告げることが、彼の唯一の主題だったのだ。

8章2節以下には、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たち」とある。

これらは、イエスによって新しく生き始めた人たちの名である。すべて女性だ。古代においては、洋の東西を問わず、女性は「汚れた存在」と考えられていた。レビ記12章によると、女性が男児を出産した場合は通常の生理のときと同じく7日間、女児を生んだ場合は14日間、「汚れている」とされた。出血の状態によっては、男児の場合は33日間、女児の場合は66日間、神殿への出入りを禁じられた。

このように「汚れた存在」とされていた女性たち、しかも、その上に「悪霊に取りつかれた」と噂された女性たちを、イエスはすべての偏見から解放して、「清い者」・「尊い人格」として処遇したのである。彼女らは解放され、全く自由になって、イエスと共に人生の旅路を歩む者となった。このような解放が起こる所、このような喜びのある所、そこでは既に神の国が始まっている。

この「種蒔き」の譬えの直ぐ後でも、「悪霊に取りつかれたゲラサの人」8章26節以下)や、「12年間も出血が止まらなかった女性」同43節以下)、つまり、矢張り当時「汚れた存在」とされていた人々の解放の物語が語られる。「種蒔き」の譬えがこの文脈の中に置かれていることを考えるなら、「種は神の言葉である」という、その「神の言葉」は、単なる抽象的な言葉を意味しないことは明らかだ。

「神の言葉」とは、すべての人を偏見や差別から解放する「神の国の福音」に他ならない。この種を、イエスは、農夫が種を蒔くように蒔いたのである。道端のような所にも、石地にも、茨の近くにも、土地がある所ならどこにでも、可能性を信じて蒔いた。もちろん、成功しなかった場合もある。だが重要なのは、イエスが最後に「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、100倍の実を結んだ」と言っていることである。良い土地に落ちさえすれば、種はおのずから芽を出して多くの実を結ぶ。イエスはこの可能性にかけたのだ。多くの場合徒労に終わることを知りながら、この可能性を信じて、彼は至る所に種を蒔いた。そして、同じことを私たちにも求めておられる。

先週天に召された鈴木祐子さんは、「児童福祉、特に家庭環境を奪われた子どもたちのいのちの尊厳を守るために、その持てる力の限りを尽くして」(野口幽香賞の表彰文)その生涯を捧げた人であった。葬儀には400人を超す人たちが集ってその「早すぎる死」を悼んだが、その中に祐子さんに愛された子どもたちが何人も来ていて、人々の心を打った。この子たちの心に蒔かれた種が実を結ぶことを信じ、祈りたい。

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