2007・1・28

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「高い山に登る」

廣石 望

列王記上19,1-12; マタイ福音書17,1-9

 

I

今日のテキストは、弟子たちが山上でイエスの姿が変容するのを体験するという不思議な物語です。

マタイ福音書のイエスは、何度か「山」に登ります。もっとも有名なのは「山上の説教」でしょう(マタイ5,1; 8,1)。次に有名なのは福音書の末尾、復活者イエスがガリラヤの山上で11人の弟子たちと再会し、世界宣教を命じる場面です(28,16)。さらにイエスは一人で祈るために山に登ることがあり(14,23)、そこに連れてこられた多くの病人を癒したという報告もあります(15,29)。もうひとつユニークなものとして、サタンがイエスを連れて山に登り、「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せた」という記述もあります(4,8)。

マタイ福音書において山に登るとは、何よりも神と出会うためです。そして一人になって、本当の自分の使命を知るためです。悪魔の誘惑については、後でもう一度ふれます。

II

弟子たちは山の上で、イエスの姿が変容するという幻を見ます。幻を見るとは、あるヴィジョンをもつこと、現実の私や現実の世界にとらわれない新しい世界を夢見ることです。

もっとも夢見ることは、私たちの社会では、しばしば「現実」の名のもとで過小評価されます。「身のほどをわきまえなさい」「そんな夢みたいなことを言うのはよしなさい」「大人になりなさい」「現実的になりなさい」――あたかも夢見ることが幼稚なことであるかのように。戦争と暴力のない世界を夢見て行動する人たちに対して、世間の目はたしかに常に好意的というわけではありません。なぜでしょう?

沖縄の村椿嘉信先生が、最近のニュースレターの中で、アルノ・グルューン『私は戦争のない世界がほしい』(Arno Gruen, Ich will eine Welt ohne Kriege, 2006)という書物を紹介しておられます。夢見ることの大切さについて書かれている本だそうです。グリューンによれば、権力者たちは民衆が現状に順応することを拒絶して、現実を超えてゆくような夢を見ることをとても恐れているのだそうです。だから権力をもつ人々は、自分たちの身勝手な暴力や力の乱用を、強さや男らしさ、バイタリティーや行動力の発揮、あるいは秩序の維持や安全確保といったオブラートに包んで民衆に提示することで、丸めこもうとする。こうして人々から、弱者に共感する心が奪われてゆくのだそうです。

これに対して、昨年「女性に対する暴力に反対する」キャンペーンの一環で来日した、国際的な人権NGOであるアムネスティ・インターナショナルの事務局長アイリーン・カーンさんは、講演の中で「歴史は、暴力に対してNo!と言う人々によって作られてきた」と言っておられました。私たちは、現実を乗り越えて、未来を夢見る心をちゃんともっているでしょうか。

III

山上で変容をとげたイエスが語り合ったというモーセも、夢を見ました。民族同胞を「奴隷の家」エジプトから解放するという夢です。これが神から与えられた彼の使命でした。そして彼は山の上で神に出会います(出エジプト19)。モーセは、指導者としての孤独や孤立も経験しています。イスラエルの民は絶体絶命のピンチに陥ると、モーセに食ってかかります、「我々を連れ出したのは・・・荒れ野で死なせるためですか。我々はエジプトで『ほうっておいてください。・・・荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」(14,11-12)。その彼を支えたのが、「わたしはある」という名の神の啓示でした(3,14)。

預言者エリヤもまた、夢を見ました。ヤハウェの神一人を崇拝するという夢です。彼はその信仰のゆえに、当時の王アハズ、とりわけ王妃イゼベルと衝突します。暗殺予告を受けたエリヤは荒れ野に逃亡し、そこで一人孤独になって神に死を願い求めます。やがて彼は「神の山ホレブ」に登ります(列王記上19章)。この物語には、後でもう一度もどってきたいと思います。

IV

私たちの物語には、弟子たちの視点があります。

イエスの姿が変容し、モーセやエリヤと彼が語り合っているのを見た弟子たちを代表して、ペトロは仮小屋を建てましょうと、とんちんかんな提案をします(4節)。これは天的な存在を、この世的な仕方で受け止めようとする姿勢の表われだと思います。

次に彼らは輝く雲の中で、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という神の声を聞きます(5節)。すると弟子たちは「ひれ伏し、非常に恐れた」(6節)とあります。「ひれ伏す」というのは、やや誤解を招く翻訳かも知れません。原文を直訳すると「彼らは彼らの顔の上に倒れた」となり、「これに聞け」という神の声に従わなかったという意味です。本当はイエスの言葉を、目を上げて待つべきだからです。

彼らを恐れから解放するのはイエス自身です。イエスは近づいて、「彼らに手を触れて」こう言います、「起きなさい。恐れることはない」(8節前半)。イエスから触られて声をかけられて初めて、弟子たちは恐れを乗り越えて目を上げます。すると「イエスのほかにはだれもいなかった」(8節後半)。

このような弟子たちの視点は、夢を見ることの難しさを暗示しているようです。現状に抗って夢を見るには、そして夢の実現に向けて歩むには勇気が必要です。恐れを克服しなければなりません。イエスが、そのとき助けてくださる。

V

先に、イエスが山に登ったのは説教を行うため、祈るため、病人たちを癒すため、あるいは復活して弟子たちに世界宣教を命じるためばかりでなく、悪魔の誘惑に身をさらすためでもあったと言いました。

このことは、高い山に登って一つのヴィジョンを得るとは、夢見ることの破壊的な側面、すなわち暴力を生命力の発露と勘違いする危険性を含んでいることを示しています。サタンが山の上で、イエスに「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せた」とあるように(マタイ4,8)、権力者もまた夢を見、野望を抱きます。命に仕えることでなく、できれば意のままに命を操作したいという誘惑から、宗教も常に自由であるわけではありません。

しかし弟子たちが顔を上げたとき、普通の姿の「イエスのほかには誰もいなかった」(8節)とあります。これは、夢見ることの破壊的な幻想から自由になるには、地上を歩んだイエスを見るほかないという意味にとることができるしょう。イエスに従うとは、宗教的な力の乱用への誘惑から自由になることを含んでいます。

VI

一同が山から下りるとき、イエスは弟子たちに命じて言います、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」(9節)。この言葉が伝えられているということは、イエスの復活が起こったのを機会に、山上の変貌の物語も「解禁」になったという意味だろうと思います。

注目していただきたいのは、「復活する」と訳されたギリシア語の原文が「彼は起こされ」という受身形であるのと並んで(9節)、イエスが弟子たちに向けた「起きなさい」(8節)という言葉も、直訳すれば「あなた方は起こされよ」と、まったく同じ動詞の受身形が用いられていることです。つまりキリストが「起こされ」たとき、弟子たちもまたイエスから「起こされよ」という励ましを受けとるのです。

ここで、再びエリヤの物語を見たいと思います。王妃イゼベルの脅迫を受けて逃亡したエリヤは、ベエル・シェバまでは従者を連れて逃げ、その先は一人で荒れ野に入り一日歩き続けた後、一本の木の下に座って神に死を求めます、「主よ、もう十分です。私の命を取ってください」(列王記上19,4)。そして彼は疲れ果てて眠り込みます。するとちょうどイエスが弟子たちに触れて言ったと同じように、天使がやってきて「彼に触れて」こう言います、「起きよ、そして食べよ」(5節)。天使が食べ物と飲み物を用意したのです。このことが繰り返された後、エリヤは40日40夜歩き続けて、神の山ホレブに到着すると、今度は一晩を暗い洞窟の中で過ごします(9節)。そのとき「エリヤよ、ここで何をしているのか」という神の言葉が、彼にのぞみます(9節)。神は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」(11節)と命じ、エリヤは山に登ります。エリヤは「嵐の中」「地震の中」そして「火の中」を通り抜けてゆき、最後にようやく「静かにささやく声」の中に神と出会うのです(13節)。彼は、再び神の言葉をえて帰ってゆきます。

エリヤの逃避行と立ち直りの物語は、イエスの弟子たちが恐れを乗りこえて、「起こされる」に至るプロセスを二重映しになっているように思われてなりません。弟子たちもまた、エリヤと同様に、孤独と絶望、死のような眠り、嵐や地震そして火の中を通り抜けるようにして、ついには「静かにささやく声」の中に、「起きなさい。恐れることはない」(マタイ17,8前半)という復活のキリストの励ましを受けとるのではないでしょうか。

そこには「ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネ」(マタイ17,1)とあるように、わずかな数ですが同志たちがいます。一度は自らに死んで、神によって起こされた者たちです。今日、私たちもそのような者として、「この者に聞け」という神の言葉を聞けますように!

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