2006・12・24

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「見えない神の姿」

廣石 望

イザヤ書60,1-7;コロサイ書1,13-20

I

敬愛する姉妹・兄弟の皆さん、クリスマスおめでとうございます。

今日私たちは、ナザレのイエスの誕生を祝います。彼の誕生は、万物の創造者である神が、この世界に対する愛のゆえに、自ら人となって私たちのもとに降ったできごとでした。このできごとこそ、世界の神秘です。そのことを讃えて私たちは静かに、そして晴れやかにクリスマスを祝います。

イエスは決して人を傷つけませんでした。攻撃されても報復せず、偽りには真実を、絶望には希望を、また冷淡さには愛をもって応えました。このイエスは、十字架刑という悲惨な最期を遂げました。巡礼客でにぎわう都エルサレムの郊外で、裸にされて鞭打たれ、盗賊たちといっしょに杭に吊るされて、もだえ苦しみながら衰弱死したのです。死にゆくイエスを人々はこう罵ったと福音書が伝えています。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(マルコ15,31-32)。「他人は救ったのに、自分は救えない」という嘲笑は、じつはイエスの生き方の根幹を正確に捉えています。イエス自身、次のように言ったとあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10,45)。

そのように生き、そして死んでいったイエスが、いまや神によって死者たちの中から起こされて神のもとに高く挙げられ、彼を信じる者たちの心に聖なる霊となって働きかけておられる、という体験を通してキリスト教は誕生しました。そして、この世界がどんなに憎しみと報復の連鎖の中に閉じ込められていようとも、神が「わたしたちを闇の力から救い出し、その愛する御子の支配下に移してくださった」(コロサイ1,13)と感謝と賛美の歌を歌うこと――このことをキリスト教会は、ずっと続けてきました。今日のテキストは、神の御子キリストが「見えない神の姿」である(コロサイ1,15)、世界の創造者である神の本質を映す鏡のような存在であると歌います。私たちも、その歌声に耳を澄ませてみましょう。

II

このキリスト讃歌は、前半(15-18節前半)と後半(18節前半-20節)に分かれています。それぞれの部分が、「御子は」という言葉で始まります。前半から見てゆきましょう。冒頭には、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(15節)とあります。キリストは、神による宇宙万物の創造とのかかわりの中に置かれます。

宇宙の成立をめぐる思索は、古代世界において、思想におけるユニバーサリズムのひとつのかたちでした。世界の始めを問うことは、現実に存在する複数の文化や宗教を統合する超越的な原理を問うことだったからです。私が何民族に属してどのような家系に生まれ、何語を話してどの宗教に属しているかといったことがらは、宇宙全体の営みの中では最終決定的なことではない。宇宙の生成に関わる神秘こそが重要だという理解です。現在、私たちは文化的・宗教的に多元化した社会に暮らしています。今日の礼拝には、日本山妙法寺からお二人の僧侶が参加しておられます。たいへん光栄に存じます。そのような社会に生きる私たちは、古代の宇宙論に匹敵するほどのユニバーサルな視野を、例えば地球環境を宇宙環境の中で捉えるような視野を果たして持ち合わせているでしょうか。

「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(16節)――「王座」「主権」「支配」「権威」といった表現は、天上界に存在すると信じられた天使的勢力を実体化した概念です。実際、コロサイ教会では宇宙の霊的な諸元素や星々、さらには天使に対する崇拝が行われていたようです(コロサイ2,8.16.18)。こうした傾向に対してこの讃歌は、万物は「御子において」、つまり「御子によって、御子のために造られた」(16節)、すなわち世界はキリストを媒介として、またキリストに向けて創造されたと歌います。古代の人々が習慣として持っていた宇宙的な勢力への崇拝を、万物の創造原理としてのキリストへの崇拝に集中させようとしているのです。

なぜこの世界は、今あるようなしかたで存在しているのか。なぜ、むしろ虚無ではないのか――このとびきり大きな問いに対して、私たちのテキストは、「その答えは、人を愛し信じることを教え、自らは無力な者たちの一人として死んだ、あのナザレのイエスの生と死、そして神が彼に与えた運命の中にこそある」と答えます。なぜなら、「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられている」(17節)というのですから。何という大胆な答えでしょう。

これに関連して、ひとつ大切なことがあります。「御子はその体である教会の頭です」(18節)という発言の中で、「教会の」という部分はコロサイ書の著者が、この讃歌を引用した際に付加した挿入句であり、もともとの讃歌では「御子はその体の頭です」と歌われていたらしいことです(現在ある原文を直訳すれば「そしてこの者こそ、教会の体の頭である」)。その場合「体」とは宇宙全体、神によって創造された世界全体を意味します。そうであるならば、キリストは宇宙全体の頭としてのみ教会の頭です。万人にとっての神こそがキリスト教の神なのです。

III

讃歌の後半に移りましょう。この部分は冒頭で、「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です」(18節後半)と歌ってキリストの復活を指し示し、さらに「その十字架の血によって平和を打ち立て」(20節)と言うことで彼の十字架の苦難を示唆しながら、最後は、神が「万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(20節)と締めくくります。前半の主題は宇宙の始まりでしたが、後半の主題はキリストの死と復活による万物の和解です。

古代において、地上界における争いは天上界における諸勢力の争いの反映であると考えられました。つまり地上界における諸民族の不和は、宇宙全体の問題と考えられたのです。讃歌は、万物の創造を媒介したキリストに原初的な「充満」(19節「満ち溢れるもの」)が宿っており、ほかでもないそのキリストの死と復活により、宇宙に平和と和解が生じたのだと歌っているのです。

ここでもキリストは、はじめからユニバーサルな存在です。「御子は初めの者」(18節後半)とあるとおりです(原文の直訳は「彼は始原である」)。イエスの十字架の死と復活という、とても具体的で個別的なできごとは、宇宙大の原理の現われと理解されています。

キリストの誕生を祝うことは、彼の存在の意味を宇宙全体の運命との関わりの中で見ることを含んでいます。神が人となったことを讃えることは、この宇宙全体の存在意義に結び合わせつつ、キリストがどのような生を生き、どのような死を死に、またその身に何が生じたかということについて思いを馳せることです。

IV

クリスマスにちなんだひとつの素敵な詩をご紹介したいと思います。

クリスマスのページェントで、
日曜学校の上級生たちは
三人の博士や
牧羊者の群れや
マリヤなど
それぞれ人の目につく役を
ふりあてられたが、
一人の少女は
誰も見ていない舞台の背後にかくれて
星を動かす役があたった。

「お母さん、
私は今夜星を動かすの。
見ていて頂戴ね――」

その夜、堂に満ちた会衆は
ベツレヘムの星を動かしたものが
誰であるか気づかなかったけれど、
彼女の母だけは知っていた。
そこに少女のよろこびがあった。

松田明三郎(まつだ・あけみろう)「星を動かす少女」
(『星を動かす少女』福永書店、1962年より)

一見すると、この詩はあるクリスマスの日曜学校の祝会における、一人の少女とその母親のほほえましい心の交流を描いたものです。しかし「星を動かす」という役割は、何という雄大なシンボリズムを湛えていることでしょう。これは宇宙の運命を動かすということなのですから。「お母さん、私は今夜星を動かすの。見ていて頂戴ね――」。この少女は、「見えない神」が自らの本質を鏡のように映すキリストの誕生を、宇宙の動きによって指し示す役割を、舞台の背後で演じます。

同時に、この少女の控えめな役割は、「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15,31)、そして「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(同10,45)イエスの姿に通じるところがあるように感じます。

そして、そのことを「彼女の母だけは知っていた」。少女を見守る母親のまなざしは、万物の創造者なる父なる神の姿とも、またキリストの降誕を讃える私たちの姿とも重なっているようです。

「そこに彼女のよろこびがあった」――少女の小さな喜びは、小さな和解のしるしです。そして、キリストの死と復活によって達成された宇宙全体の喜びにつながっているのだと思います。

皆さんお一人おひとりに、メリークリスマス!

礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる