2006・10・22

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「野の花、空の鳥」

村上 伸

ヨエル書2,21-24;マタイ福音書6,25-34

 今日の音楽礼拝のテーマは「収穫感謝」である。しかし、この主題は、大都会で生きる私たちには実感が薄いかもしれない。お百姓さんのように土を耕し・種を蒔き・天候に一喜一憂しながら収穫を待つ、というような暮らしとは通常は無縁だからだ。せいぜいスーパーに買い物に行って「新米が出た」と言っては喜び、新鮮な旬の野菜を見つけては上機嫌になるくらいだ。松茸を見るのも嬉しいが、今年は北朝鮮からの輸入が禁止されたために高値だという。尤も、いつもの年でも滅多には買えないが。梨・林檎・ぶどう・柿・栗などの果物も、今、美しい。自然に感謝の心が湧いてくる。

人類が森の木の実を集め・狩猟をして生活していた頃から、「収穫感謝」はどこでも行われていた秋の重要な儀式であった。アイヌの人々は、この習慣を今に伝えている。もう少し時代が経って農耕や牧畜が主流になってからは、この週間は一層重んじられるようになった。ユダヤでは、チスリの月の15日(現行暦では秋分後の最初の満月の日)から7日間にわたって「仮庵祭」が祝われたし、イギリスには古来 "loafs-mass"(パンのミサ)、あるいは "lamb-mass"(羊のミサ)と呼ばれるものがあったという。収穫を神の恵みとして感謝するのは人類の素朴な心情であり、普遍的な現象でもある。

ドイツでは10月第1日曜日が "Erntedankfest"だが、もっと広く知られているのは、アメリカの "Thanksgivingday"であろう。1621年、清教徒(ピューリタン)たちがアメリカ新大陸に移住して来てから迎えた最初の秋に、その年の収穫を神に感謝したのが始まりだった。だから、米国では、その11月第4木曜日は国の祝日である。

興味深いことに、その日、ピューリタンたちは単に神に感謝しただけではない。その土地に適した農法を教えてくれた先住民に対しても、彼らは心からの感謝を表わしたと伝えられる。ワンパノアグ族の族長マサソイトとその配下90人を招いて、野生の七面鳥を丸焼きにしてもてなしたのだ。このことは、「収穫感謝」の重要な側面を私たちに教えてくれる。つまり、「他者と共に神の恵みに与る」ということである。

「収穫感謝」とは、天地万物が「共に生きて行くために造られた神の被造物」であるという真理を想起することに他ならない。創世記によると、神は多種多様な穀物や野菜、果樹などを創造し、それらを食物として人間や他の動物に与えたが、それは人間がそれらの物を自分勝手に、無慈悲に収奪するためではなく、慈しんで育て、その実りを感謝して受けるためである。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2章15節)。このように、この世界の「園守り」として、共に造られた被造物を「守って」生るのが人間の責任なのである。

アッシジのフランチェスコ(1181〜1225)は、死の数ヶ月前、内心からほとばしり出る思いを「太陽の賛歌」に歌った。それは、神が天地万物を「共に生きるために」造られたことを賛美する歌である(讃美歌223番参照)。断片的だが、それを引用しよう。

「主をほめたたえよ、すべての被造物と共に / わけても特に兄弟なる太陽と共に / 朝が来る、主こそはまことの光の源 / 太陽こそは主のしるし。 / 主をほめたたえよ、姉妹なる月のため / 兄弟なる風のため / 空気のため、のため、澄んだ、また、すべての季節のため。 / 主をほめたたえよ、姉妹なる水のため / 兄弟なる火のため / 姉妹で母なる大地のため、われらを支え、育み、さまざまな実りを産み出す大地を / 色とりどりの花や野の草も・・・」。

これこそ、「収穫感謝」の意味なのだ。自分のことだけを思い、自分中心の狭い心から収穫を喜ぶのではない。エゴイズムほど、収穫感謝に相応しくないものはない。収穫感謝とは、神が天地の万物を「共に生きるために」造られたことを感謝してほめたたえることである。その中には、共に生きることを許された人間仲間も入る。だから、フランチェスコはこう続ける。「主をほめたたえよ、人を赦す心を持った人たちのため / 苦しみや悩みを耐える人たちのため / 平和のために苦しめられる人々のために」。

そして最後は、「主をほめたたえよ、姉妹なる死のために」という言葉でこの賛歌を結び、間近かに迫った「死」をも、感謝して受け入れたのであった。

ここで、今日のテキストであるマタイ福音書6章25節以下に眼を向けたい。この箇所の重点が「思い悩むな」というところにあることは、最初の言葉(25節)からも明らかだ。同じ言葉は31節にも繰り返され、そして最後は、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(34節)と結ばれる。これは真理に違いない。

だが、私は今日、イエスが「空の鳥をよく見なさい・・・」(26節)と言い、また、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい・・・」(28節)と言われたことに特に注目したい。イエスは尊大な権力者に対しては厳しい批判の眼を向けられたが、抑圧された人々や病人、障碍を持つ人々、子どもたちなど、この世で最も小さい人々には優しい目を注がれた。そしてその眼差しは、人間に限らず、周囲に慎ましく生きている小鳥や、道端の名もない花にも注がれた。福音書の中で、イエスはしばしば動物や植物に言及するが、その時の彼の眼差しはあくまでも優しく、そして注意深い。

「注意して見なさい」の原語(katamanthanein)は、「よく観察する」とか「注意深く考える」「徹底的に学ぶ」という意味である。空の小鳥や野の花といった自然界の中で最も小さい存在をも、私たちはよく観察し、その観察に基づいて注意深く考え、そこから徹底的に学ばなければならない。イエスは、こう命じているが、「収穫感謝」はそこまで視野を拡大して祝うべきことなのである。

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