2006・10・1

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「神がお造りになったもの」

村上 伸

創世記 1,20-25;1テモテ 4,1-5

 今日は「食」について考えたい。

 最近の日本では、「食」はもっとも人気ある話題の一つである。「グルメブーム」とやらで、新聞や雑誌には贅沢なフランス料理からラーメンに至るまで、「どこにどういう美味しい食べ物があるか」といった類の記事が溢れているし、テレビでは「美味いもの」を片っ端から食べ歩く太ったタレントが人気だ。一定の時間内にホットドッグを何本食べられるかといった馬鹿げた競争の中継もある。食べる物がなかった戦時中に育った私などにとっては、このような「冒涜的な」(!)番組は見るに耐えない。

 他方、良い面もある。「医食同源」という考えに基づいて「健康食」に関する情報はとても豊富になったし、近頃は「食育」という言葉も使われ始めた。


 だが、新約聖書の時代には、「食」は別の意味で問題にされていた。たとえば、ユダヤ教徒やイスラム教徒の間では――これは今日に至るまで変わらないが――宗教的な教えに従って豚肉は「禁忌」(タブー)だった。他にもいくつか食べることを禁じられた物がある。

初代のキリスト教会はこの「タブー」からは概ね自由になっていたが、それでも、「食の問題」がなかったわけではない。たとえば、偶像を祀った神殿が市内各所にあり、そこではいろいろな動物が犠牲として捧げられる。祭儀が済んだ後、その肉は払い下げられて市場に出回る。その肉を、偶像崇拝を斥けるキリスト教徒が買って食べることは許されるだろうか? 「偶像に供えられた肉」を食べてもいいものだろうか? これは当時のクリスチャンにとっては意外に大きな問題だったらしい。「食べるべきではない」と強く主張する人々がおり、「いや、構わないのではないか」と考える人々がおり、意見の対立は見逃せない段階に達していた。そして多くは、その間で悩んでいた。

この問題について、パウロは、「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(1コリント10章25節)と言っている。食べても食べなくてもいい。ただ、そのことで仲間割れしたりしないように、と彼は教えたのである。

 今日のテキスト(1テモテ4章)の背後にあるのも、この問題だ。当時、パウロやテモテの周囲には「自分の良心に焼き印を押された」(2節)ような人々がいたらしい。「焼き印」とは、家畜や奴隷の皮膚に押される印で、「隷属」、あるいは「不自由」の徴である。従って、「良心に焼き印を押された」とは、良心が「自由でない」人々のことを意味する。その人たちが、原理主義的な頑固さで「ある種の食物を断つことを命じたり」(2節)することは珍しくなかった。それに対してパウロは、「そんなにビクビクしなくても良い」と教えたのである。「この食物は…感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです」(3節)。そして、「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです」(4節)。これが「食」に関する私たちの基本的な立場だと言っても良いだろう。


 さて、「食」について、もう一つ述べておきたいことがある。パウロは前述した1コリント10章で、「食」との関連で聖餐式についても言及している。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」(16節)。そして、そこでは「皆が一つのパンを分けて食べる」(17節)のだ、と続けている。このことは意味深い。

 そもそも聖餐式とは何か? それは、「神の国の食事の先取り」である。

 やがていつか、神の国が来る。神の真実の支配が完成する日が来る。その日には、「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(ヨハネ黙示録21章3-4節)。その日には、今私たちが経験しているような争いや弱肉強食はすべて止む。その日には、「食」の分配の不公平さも、格差社会もなくなる。その日には、飢えた人たちも飽き足りるようになる。その日には、貧しさの中に見捨てられて今日食べるパンにも事欠く人たちが、その涙を拭われる。母親の乳は既に涸れ果て、泣き疲れてぐったりしている赤ん坊の涙も拭われる。主イエスが、「今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる」(ルカ6章21節)と約束されたように。

 そして、その日には、地上のすべての人が、神の祝福の下で、兄弟愛のテーブルにつくのである。主イエスはこのことを約束された。この約束の先取りが聖餐式なのである。このことを信じて受け入れる方は、共にこれに与って頂きたい。しかし、これに与るということは、地上のすべての人々の苦しみや涙を直視すること、「食」の正しい分配のために力を尽くすことを意味する。

パレスチナやレバノン、イラクなど中東各地で苦しんでいる人たち。アフリカで飢えている人たち。アジアの各地で呻いている人たち。とくに、フィリピンで血を流している人たち。すべての人の苦しみが、主イエス・キリストの体と血によって担われているということを、私たちは信じたい。これが「世界聖餐日」の意味なのである。

礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる