2006・9・17

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「キリストの日に備えて」

村上 伸

ホセア書 10,12;フィリピ 1,3-11

 この礼拝は、今日の午後から多摩センターで行われる「教会カンファレンス」の開会礼拝を兼ねている。それ故、それに出席できない方々も、こういう形で「カンファレンス」に参加していることになる。

 さて、今年の「カンファレンス」の総合テーマは、「この世に生きて働く教会」、副題は「現代の諸問題と代々木上原教会の未来」である。これをさらに「平和」・「環境」・「子どもの未来」という三つの具体的な問題に絞り、グループに別れて話し合うことになっている。そこで、話し合いに十分な時間を確保するために、「教会だより」56号に掲載された発題内容を予め各自が読んでくることにした。参加できない方も、これを読んで問題意識を共有して頂ければ嬉しい。

 私自身も、これらの発題を読んでいろいろ教えられた。

 先ず、「平和」の問題について。SAさんが「憲法と安全保障」という題で書いている。彼は、「基地の島」沖縄で生まれ、子供の頃そこで冷戦時代を過ごした。そのために「いつソ連の核ミサイルが飛んでくるのか不安でした」と言う。恐らく本土の人々とは違う緊迫感を肌で感じながら育ったのだ。今は「北朝鮮のミサイル」に不安を感じていて、その中でどうしても「安全保障」の問題を考えずにはいられない。そして、「北朝鮮のミサイル等の武力行使を防ぐためには、日米安保の方が憲法9条よりも、よっぽど有効に機能している」のではないかと感じている。むろん、これは最終的な結論というよりは、一つの「問い」なのだろう。私は、彼がこの重大な問いを率直に持ち出したことに感謝したい。活発な対話がここから生まれるに違いないと思うからだ。

第二の「環境」の問題も容易ではない。これについては、この分野の専門家・HSさんが「人間活動と地球温暖化」という一文を寄せた。彼は先ず、現代世界の「豊かさは天に唾するような豊かさで、すでに大きな自然の逆襲が人類の前に押し寄せてきている」と指摘する。そして事態の深刻さを、気候変動の実態・海水面の上昇・植生への影響・農業生産への影響・健康への影響という5点に絞って簡潔に解説した上で、「21世紀は、人類破滅の道を進むのか、それとも人類は地球とともに長く生存していくのかの分かれ道である」と言う。正にその通りである。私たちの教会は、この容易ならざる地球環境の危機に際して何をすべきか? また、何ができるか?

 第三の「子どもの未来」に関しては、現在この国でも多くの悲観的意見が聞かれるが、TJさんの「この世の風に吹かれる子どもたちと共に」という文章は、将来への希望を私たちに与えてくれた。彼女は、毎年行われる教会学校「お泊り会」の経験から、「子どもたちが教会の中で確実に育てられている」ことを感じると言い、「いつもちいさいひとたちの面倒を見てくれていた高校・大学生・・・にいつもしてもらっているとおりのやり方を、さらにちいさいひとに対して、またお互いのあいだで生かそうとしている場面をたくさん見ることができた」と述べている。深く慰められる。

「子どもたちの未来」については、もう一人、企業の第一線で働く人の立場からMHさんが示唆に富む一文を書いている。現在の日本企業では「成果主義」が支配的になり、そこからさまざまな問題が生じていることを指摘した上で、子どもたちとの対話を通じて「子どもを育てる私自身が変わらなくてはならない」ことに気づいた、というのである。これこそが、正に問題なのだ。

 以上、ざっと発題内容を紹介したが、ここで聖書に目を転じたい。

 今回の「カンファレンス」のために選ばれた聖句は、ホセア書10章12節である。準備委員会は素晴らしい聖句を選んだものだと感心する。「恵みの業をもたらす種を蒔け。愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて恵みの雨を注いで下さるように」

「恵みの雨」は、畑の作物にとって決定的に重要である。雨が降らなければ、大抵の作物はじきに枯れる。だからといって、雨を自在に降らせることは、私たち人間には不可能だ。それは神の業である。「主が訪れて恵みの雨を注いで下さる」のである。そのことを信じて土を耕し、種を蒔く。これが、私たちに出来る唯一のことだ。

 だが、「恵みの業をもたらす種を蒔く」とはどういう意味か? その正反対の言葉がすぐ後の13節にあることに注目したい。「お前たち(イスラエル)は悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ」。ここから逆に、「恵みの業をもたらす種」という言葉の意味が明らかになる。つまり、自分の力や軍事力に頼って悪・不正・欺きを行うのではなく、ひたすら神の「義」を祈り求め、その「義のために種を蒔く」(鈴木佳秀訳)ということである。そして、「義」とは「愛」に他ならない。イエスが示された愛に生きるとき、「ついには主が訪れて恵みの雨を注いで下さる」。このことを信じたい。

 それと関連して、フィリピ1章3節以下にも注目させられる。パウロは、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さる」(6節)と信じた。それと同じことを、TJさんは前述の文章の中で、少し違う表現でこう書いた。「[子どもたちの成長は]一日で出来上がったものではありません。・・・礼拝や分級で行われていることが積み重なり・・・多くの会員の方々のお祈りやお声がけや暖かい配慮、まなざしなどすべてが子どもたちに降り注いできた結果なのです」。パウロの今の言葉の意味は、具体的に言えばこのことではないか。

だからこそ、私たちは「キリストの日に備えて」(10節)日々を生きていくのである。

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