2006・7・30

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「同じ愛を抱く」

村上 伸

列王記下4,42-46;フィリピ2,1-5

『新共同訳』では、フィリピ書2章1節「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐みの心があるならとなっている。「幾らかでも・・・があるなら」という言い方は、多くの場合、次のように理解されるのではないか。すなわち、誰でもクリスチャンならば、仲間を「励まし」たり、愛の心で「慰め」たり、心で「交わったり」することが出来る筈だ。あなた方もそのような美徳を「幾らかは」持ち合わせているに違いない。だから、この「幾らかの」可能性を活かして、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たす」べきだ、という風に。むろん、この理解も間違いではない。

だが、佐竹明氏の解釈は少し違う。彼は、例えば「キリストによる励まし」を、私たちの幾らかの可能性を活かして「仲間を励ます」という意味にではなく、むしろ「キリストにおいて神がわれわれに与えて下さる励まし」という意味に取る。「愛の慰め」も同様で、私たちが仲間に対してなすべき「愛の慰めの業」というよりも、「神の愛がわれわれに与える慰め」と解釈するのである。だから「霊の交わり」も、信徒相互間の交わりというより、「聖霊が与える、聖霊と信徒の交わり」を意味する。

そこで彼は、「受ける」という面を意識的に強調して、こう訳している。「そこで、いくらかでもキリストにおける励ましを受けているなら、いくらかでも愛の慰めを受けているなら、いくらかでも霊の交わりを受けているなら、いくらかでも熱愛と憐みを受けているなら、同じ思いを抱くことによってわたしの喜びを満たしてほしい」。この解釈は、パウロの思想全体の特徴をより良く生かしていると言えよう。

私たちの生き方は、自分が持ち合わせている能力によって可能になるのではない。キリストによって、聖霊によって、あるいは、神がその都度私たちに与えて下さる力によって、実現されるのである。

このことは、宗教改革者マルチン・ルターの経験を思い起こさせる。彼は「神の義」に達しようとして苦労した人物であった。若い頃、志を立てて修道院に入り、厳格な規則に従って熱心に努力したが、努力すればするほど彼は自らの罪を自覚させられるばかりで、「神の義」という境地は無限に遠く感じられた。終いに彼は、「神の義」という言葉を憎むようになったと告白しているくらいである。その苦悩の中で、彼はローマ書1章17節の言葉に出会ったのである。「神の義が福音を通して啓示された」!この時の深い感動について、のちに彼はこう書いた。

「神の義が福音を通して啓示された、という命題の意味は、神の義が受動的な義であるということ、すなわち、憐れむ神がわれわれを信仰によって義とするところの義であるということである」。これを分かり易く言えば、私たちは自分の力によって、つまり「能動的に」神の義を実現することは出来ない、自分で自分を「義とする」こと、すなわち「自己義認」は不可能である、ということである。罪人である私たちは、ただ神の恵みによって「義とされる」だけだ。これを彼は「受動的な義」と言ったのである。このことは、ややこしい「神学論」などではない。実は、現代世界の最も深刻な問題と深く関係している。

たとえば、昨今の「レバノン問題」を考えてみるがいい。イスラム教シーア派の民兵組織「ヒズボラ」は、確かにイスラエルに攻撃を加えて兵士を2名拉致した。半世紀にも及ぶ経緯があって起こったことだとしても、これにイスラエルが起こるのは分かる。だが、イスラエルの反撃は度を越えているのではないか。そしてこの戦争は、米国の暗黙の了解もあって、当分止みそうもないと見られている。

イスラエルの「やりたい放題」の行動を生み出したものは何か? 自分たちこそは「神の選民」であり、パレスチナの土地所有を永遠の昔から約束された民族である、という思い上がりであろう。彼らは、「神の義」は自分たちの側にあるという主張を絶対に譲らず、あくまでも自分を「義」としようとする。これはイスラエルに限ったことではないが、このような自己義認(自己正当化)は、必然的に他者を排除することにつながる。その際、相手も黙ってはいないから、一旦「自己義認」をやり出したら最後、世界は際限のない争いに突入する。これは、イエス・キリストの心ではない。

さて、今日のテキストに戻ろう。2節後半から5節までを再び佐竹訳で読みたい。

「すなわち、同じ愛を持ち、心をあわせ、一つの思いを抱き、何事も利己心によって、また虚栄心によって行うことをせず、謙遜によって、互いに相手を自分よりすぐれたものとし、まためいめいが自分の事柄ばかりに注意を向けないで、めいめい他人の事柄にも注意を向けなさい。あなたがたは、今述べたような思いをあなたがたの間で抱きなさい。そしてそれは、キリスト・イエスにおいてもあなたがたに与えられているのである」。正にこのことを、神は望んでおられるのだ。旧約聖書によって立つイスラエルも、イエスを知っている筈の米国も、このことをすっかり忘れている。

ここで言われる「利己心」とは、単なる「エゴイズム」のことではない。佐竹氏によれば、「何か事に際して、神が相手の側にではなく、自分の側につくことを欲する姿勢」だという。あらゆる争い、特に宗教間の争いを支配しているのはこの「利己心」である。また、「虚栄心」とは、「自分が特別に神に認められることを願い求める生き方」を意味するという。この「利己心」と「虚栄心」を克服することが、現代世界の緊急の課題ではないか。そして、主イエスは、正にそれを克服された方であった。それ故に私たちは、「私たちの教会の姿勢」の中に、フィリピ2章6節以下の言葉を掲げたのである。

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