2006・7・16

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「家族と復活」

廣石 望

創世記27,30-37;ルカ福音書15,11-32

I

 私たちの多くが、生活の最も基礎的な部分を、家族とともに過ごします。夫婦・兄弟姉妹・親子の関係は、おそらく人間にとって永遠のテーマです。しかも、家族との生活が決して簡単なものでなく、いろいろな問題の生まれることがあることは、旧約聖書の最初の書物である『創世記』を見ても分かります。

 人類最初の夫婦であるアダムとエヴァは、互いに愛しあう存在です。しかし禁令を破ったアダムは、神に問いつめられると、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3,12)と言って、責任をエヴァ(と神)になすりつけたのでした。アダムとエヴァには、息子が二人います。カインとアベルです。そして人類最初の殺人事件は、この二人の兄弟の間で起こったとされています(創世記4,1以下)。兄弟同士の争いは、さきほど朗読したエサウとヤコブの間でも生じています。さらにアブラハムには、サラとハガルという二人の妻がいました。もともとハガルは、サラが夫アブラハムに、跡継ぎを生ませるために与えた女奴隷です。やがてハガルに息子イシュマエルが生まれ、後にはサラにも待望の息子イサクが生まれます。しかしサラはハガルとその息子を嫌い、夫を間にはさんで、妻たちの間に争いが生じました(創世記16,1以下)。

 とくに相続がからむ関係の中で、問題が生じていることが見てとれます。このことは、今の私たちの間でもそうです。

II

 イエスの譬えを聞いた人々が、みんな知っていたと思われることが、いくつかあります。

 まず、古代地中海世界の家族には、いわゆる家父長制がありました。「家父長」は、妻に対する夫、奴隷たちに対する主人、子どもたちに対する父親という三つの役割を一人で担う存在です。新約聖書の書簡文学には「身分訓」と呼ばれるテキストがありますが、そこに「妻たち」「夫たち」への勧告、「子どもたち」と「父親たち」への勧告、そして「奴隷たち」と「主人たち」への勧告が現われます(例えば、エフェソの信徒への手紙5,22以下)。イエスの譬えに母や娘たちが登場しないのは、この物語で相続というモチーフが用いられているからです。

 次に、イスラエルでもローマ世界でも、自分の所有する土地に家族とともに住み、農耕によって食べ物を得るという自作農の生活が、人間にとって最も幸せな生き方であると考えられました。一つの家には、自由人の親子だけでなく、奴隷たちとその家族、さらには身を寄せる親族などが同居している場合があります。労働は、一家総出で行なわれるのが通例でした。家の倫理は、家畜や農産物に代表される財産をできるだけ減らさず、できるだけ増やすことを理想としました。勤勉さと節約が奨励されたのです。

 それからもう一つ、「二人の対照的な息子たち」とも言うべき、文学的なモチーフの存在があります。模範的な出来のよい兄と、「どら息子」の弟という図式です。跡継ぎである兄は、田舎に住んで農業を営み、倹約家で勤勉であるのに対して、弟息子は都会に住み、酒と音楽と女性を愛し、浪費家です。なのに弟息子は、父親の寵愛を一身に集める、というのが典型的なパターンです。現代のドラマでも、よく使われるモチーフですね。

III

 さて、イエスの放蕩息子の譬えは、ご覧のとおり、前半と後半に分かれています。前半は、財産を分与されて独立した弟息子が外国で落ちぶれてしまい、モノローグの中で罪の告白を用意した上で帰郷すると、予想に反して父親が暖かく迎え入れて祝宴を開いたという物語です。これに対して後半は、前半の続きです。父親の行動に腹を立てて祝宴に参加しようとしない兄息子を、父が宥めるというストーリーです。私は、前半部分の罪告白のモチーフは、イエスのもともとの話にはなかっただろうと思います。弟息子の異国における罪告白の準備は、父も兄も知らないことであるばかりか、ストーリーの展開に明らかに何の影響も与えていないからです。弟息子が悔改めた罪人として帰郷したことを知っているのは、むしろルカ福音書の主人公であるイエスと読者である私たちだけです。おそらくもともとの話では、弟息子は「どら息子」のまま帰郷し、実家に問題を持ち込んだのだと思います。私にベーシックと思われるストーリーの基本形は、およそ以下のようなものです。

ある人に二人の息子がいた。そして、そのうちの弟の方が父親に言った、「お父さん、財産のうち、(僕の)取り分を下さい」。そこで父親は資産を彼らの間で分けた。その後間もなく、弟息子はすべてをまとめて遠い国に旅立った。そしてそこで救いようのない暮らしをして、自分の財産を散らしてしまった。彼は我に返って言った、「お父さんのところでは、どれほど大勢の雇い人たちにパンがありあまっていることか。それなのに僕はここで死のうとしている」。彼は立って、自らの父のもとに帰って行った。

しかし彼がまだ遠く離れていたとき、父親は息子を見て、断腸の思いに駆られ、駆け寄ってその首を抱きしめ、接吻した。そして僕たちに言った、「急いで極上の着物を持ってきて、彼に着せなさい。そして指輪をその手に、サンダルをその足に与えなさい。肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。祝宴を開こうではないか!」 ところが兄息子の方は怒りにかられ、宴の輪に入ろうとしなかった。

そこで父親は出てきて、息子にやさしく語りかけた。すると兄息子は父親に答えて言った、「私には、一度たりとて、友達と祝宴をあげるために一匹の子山羊すらあなたは下さらなかった。ところがあなたの息子、そこのあ奴が帰ってくると、こいつのためには肥えた子牛を屠られたのです」。父親は言った、「ぼうや、お前はいつでも私のもとにいる。そして私のものは全部お前のものだ。でも今は、宴を祝わずにはいられないではないか。このお前の兄弟は死んでいたのに生き返ったのだから」。

 この物語の登場人物たちは、みなそれぞれの仕方で、伝統的に期待されている役割から外れた行動をとります。弟息子は、父の生前に財産分与を受けて分家することで――このこと自体は法的には可能なのですが――、実質的には父を死んだも同然に扱い、なおかつ一家の財産を減らしています。父親は、そのようにしていったん家を出た息子を、彼を見たとたんに「断腸の思いにかられ」た結果、家長としてあるまじきことに、もう一度家に入れたのみならず、さらには高価な子牛を屠って祝宴になだれ込む、という浪費行動に出ています。弟息子の帰郷は、家の秩序に変化をもたらしたわけです。そのあおりを受けた兄息子は、これまでは忠実で真面目な家の息子であったのに、あろうことか家長としての父親に反抗してしまいます。簡単にいうと、この家は以前と同じものではなくなったのです。新しい関係の定義が必要です。

IV

 「父と息子たち」というモチーフは、比喩的に、神とイスラエルの関係を表現するためにも用いられました。イスラエル社会は男系で、なおかつ長男が基本的に親の全財産を相続します。ところが民族の伝説的な英雄たちの多くが、じつは長男ではありません。イサク、ヤコブ、ヨセフ、ダビデを思い起こしてください。これは、〈神は現実社会で通用するルールとは別の仕方で、つまり自由に恵みと祝福を与える〉というメッセージです。ラビの発言の中には、周辺の大きな諸民族を「兄たち」と見なしつつ、〈それでも神は、自由な選びによって「弟」のような小さな存在であるイスラエル民族を選んだ〉という趣旨の発言があります。つまり「父と息子たち」というモチーフは、多民族世界における神とイスラエルの関係を捉えるために利用されたのです。

 他方で、このモチーフは、さきほどから申し上げているように「家の倫理」を表現するために利用されました。一家の繁栄が最高の価値であると見なされ、勤労と節約、財産の蓄積と共有が奨励されたわけです。

 さて放蕩息子の譬えの父親は、これらの伝統的なパターンの何れとも合致しない振舞い方をしています。そもそもこの父親は、どちらの息子も失いたくないのです。イサクの息子たちの物語では、父の祝福を弟ヤコブに奪われたエサウが、悲痛な叫びをあげていますが(創世記27,34)、イエスの物語で悲痛な叫びをあげているのは父親です。彼はあいかわらず家父長ですが、もう「父」として兄息子に祝宴への参加を強制しませんし、そんなことはできません。やさしく説得を続けるだけです。息子を宴に誘う理由づけは、「このお前の兄弟は死んでいたのに生き返ったのだから」というものです。つまり宴に参加する者たちは復活の命に与る者たちの共同体なのだ、自分たち親子・兄弟の関係は「復活」によって新しくされたのだ、と父親は訴えています。

 この話をイエスから聞く者たちは、民族の自己理解とも家の倫理とも違う、神のクリエイティヴな力という視点から、家族生活という最も身近な経験を受けとめなおすよう促されたのではないかと思います。

V

 そのイエス自身は、父の家を棄てて放浪しました。「神の御心を行なう人こそ、私の兄弟、姉妹、また母である」という彼の言葉が伝えられています(マルコによる福音書3,34)。またイエスは、その行く先々で、「家」を中心とした地域共同体から排除された人々と共に食事し、小さな宴を祝っています。そこに集ったのは、「罪人」と呼ばれた人々、つまり生活環境や職業など、いろいろな理由で律法を守ることのできない人々、その他もろもろの「はみ出し者」がいたことでしょう。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」というイエスの言葉は(ルカによる福音書6,20以下参照)、このような場面にこそふさわしいと感じます。

 教会は、「神の家族」であると言われます。つまり私たちもまた、家族や社会の中で自分が担ってきた役割を少しだけ新しいものにすることで、神によって新しくされた関係に入ってゆくよう促されています。

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