2006・7・2

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「光の中を歩む」

村上 伸

ホセア書6,1-3ヨハネの手紙一 1,5-10

 5節に、「神は光であり、神には闇が全くない」と言われている。この言い方は、ヨハネ福音書1章1-5節の言葉とよく似ている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言の中に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」

 このように「闇」と「光」を対比する考え方は聖書にしばしば出て来るが、だからといって聖書の独占物ではない。他の宗教にも珍しくないし、特に第2世紀ごろ現れてキリスト教にも影響を与えた「グノーシス思想」には顕著に見られる。ということは、この考え方が人類共通の「基本的経験」から出てきたからではないだろうか。

 照明が今のように簡単かつ安価に使えなかった昔、人は火を灯すことを節約するために夜明けと共に起きて働き、日没と共に眠りにつくのが普通だった。日が沈むと、月明かりがない夜などは、あたりは真の闇に包まれる。私はかつてアフリカでそういう夜を経験したことがある。それは文字通り「漆黒の闇」であった。こうした真の闇は、人を不安にさせる。そのことが、私には初めて良く分かった。猛獣の多くは夜行性だというし、凶暴な盗賊も真夜中に人家に押し込む。得体の知れぬ妖怪などが現れるのも夜だ、と人々は信じている。

 だが、朝が来て日が昇ると不安は去り、「明るい気持ち」が戻って来る。このように、「光」と「闇」は、どの民族にも共通する人類の「基礎体験」なのだ。それを象徴するような言い方は、今に至るまで多く残っている。「お先真っ暗」などという言い方も、その一つであろう。


 昨年92歳で他界した詩人・栗原貞子さんに「生ましめんかな」という詩がある。

 「こわれたビルデイングの地下室の夜だった/原子爆弾の負傷者たちは/ローソク一本ない暗い地下室を/うずめていっぱいだった/生臭い血の臭い 死臭/汗臭い人いきれ うめきごえ/その中から不思議な声がきこえてきた/「赤ん坊が生まれる」と言うのだ/この地獄の底のような地下室で/今、若い女が産気づいているのだ。/マッチ一本ないくらがりで/どうしたらいいのだろう/人々は自分の痛みを忘れて気づかった。」

 原子爆弾で焼かれた被爆者たちのうめき声と生臭い血の臭い、それに死臭で満ちた真っ暗な地下室。そこで急に産気づいた若い女性。「どうしたらいいのだろう」と途方に暮れる人々。これこそ正に「闇」である。

 だが、栗原さんの詩は続く。

 「と『私が産婆です、私が生ませましょう』/と言ったのは/さっきまでうめいていた重傷者だ/かくてくらがりの地獄の底で/新しい生命は生まれた/かくてあかつきを待たず産婆は/血まみれのまま死んだ。/ 生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも。」

 マッチ一本ない「くらがりの地獄の底で」、新しい命が生まれる! しかも、その暗闇の中で、「生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」という強い意志をもって新しい命の誕生に仕えた産婆さんが居合わせたということ。

 これは、どんな闇の中にも「光である神」が存在するという真理を暗示しているように思われる。特に、「生ましめんかな/己が命捨つとも」という結びの言葉は、十字架上で死んだ主イエスと重なるようである。


 神は光である! そして、主イエスは「世の光である」(ヨハネ福音書8章12節)。だから、私たちは「光の中を歩む」のである。

 では、「光の中を歩む」とはどういうことか?

 「華やかな名声に包まれる生活」とか、「スポットライトを浴びる生活」というのがあり、多くの人はそれを生涯の目標にする。だが、聖書が私たちに指示している「光の中を歩む」生活とは、そういうことではない。

 それは、「イエスの生き方に倣って生きて行く」ということである。それを最もはっきりと、具体的に教えた聖句の一つが、「私たちの教会の姿勢」にも引用されたフィリピの信徒への手紙2章であろう。

 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3-4節)。これは正に、イエスが生涯を貫いて実践した生き方であった。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」。ここは、昔の『文語訳』ではもっと単刀直入であった。「キリスト・イエスの心を心とせよ」

 パウロは、そのことをさらに次のように展開する。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-8節)。

 光の中を歩む。何故それが「光の中」かといえば、神がそれを望んでおられるからだ、そして、主イエスもそう生きられたからだという他はない。彼に従っていきることにより、私たちはこの世のスポットライトは浴びなくても、永遠の光に照らされるのである。

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