2006・3・19

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「十字架への道」

ディルク・シュルツ

ルカ福音書 9,57-62

 私たちの主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなた方一同と共にありますように。

I

 敬愛する皆さん、キリストにあって愛する兄弟姉妹。

 私は遠い国から皆さんのこの教会にやって参りました。今日、こうしてご一緒できることを大変幸せに思い、また、この礼拝で説教できることを喜んでいます。

 ドイツでは日本のことを「太陽の昇る国」と言います。西ヨーロッパで日が沈んで一日が終わる頃、こちらではもう日が昇って人々の目を覚ましています。19世紀のイギリスの讃美歌に歌われているように、「新しい時間が輝かしく始まって」いるわけです。これは、ジョン・エラートンの"The Day Thou gavest, Lord, is ended" (1870)という歌で、多くのドイツの教会でよく歌われるものです。

 私もこの歌が好きです。というのは、世界が「一つの大きな村」(global village)だということを教えてくれますし、全世界に広がるキリスト者の交わりが「一つの教会」であることを分らせてくれるからです。この一つの教会は、一つの特別な使命、世界の前で神の御名を崇めるという使命を持っている。このことは私たち皆に当てはまります。また、この村に住むすべての人が尊厳をもって生きることができるために地上の物を互いに分かち合うように、と私たちには命じられています。言葉や伝統がどんなに違い、生活様式や儀式がどんなに異なっていても、世界に広がるキリスト者の交わりは、その核心部分においては一つの「グローバルな祈り」なのです。神を賛美することと、物を分かち合うこと。デイートリッヒ・ボンヘッファーの言葉で言えば、「祈ることと人々の間で正義を行うこと」。この二つは分かち難く結びついている。それは、私たちの主イエス・キリストご自身から私たちに与えられた課題です。そして私たちは皆、このイエス・キリストの福音によって、彼の中に根を下ろし、そして互いに結ばれています。

 私はこの特別な使命を自覚して、喜んで皆さんの「日の昇る国」にやって参りました。私は今、目新しいことへの好奇心で満ち、日本の人々に対する熱い気持ちで一杯です。遥かなる国から来て、「祈ることと人々の間で正義を行うこと」が如何にして達成できるかを、私は皆さんから、そして皆さんと共に学びたいと思っているのです。

II

 敬愛する皆さん。世界に広がるキリスト者の交わり、全世界の教会は、この受難節の期間中、イエス・キリストと共にエルサレムへ向かう道を歩みます。あの町へ、ゲッセマネの園へ、そして、ゴルゴタの丘へと続く道――つまり、十字架への道です。私たちはイエスの苦しみの道を彼の後から歩み、彼の受難に心を潜ませます。

 しかし、私たちの内、この道を自分から歩む人は一人もいません。自分からではなく、キリストご自身によって召された人間として、イエスと共に歩むのです。彼が私たちをお召しになった。彼に従うように、そして、生きるにも死ぬにも彼の言葉に信頼するようにとお召しになったのです。

 ここでルカ福音書9,57-62を読みます…。

III

 敬愛する皆さん。エルサレムへと向かうイエスの道の上で起こったこの小さな情景で明らかになったのは、差し当たりは、イエスの受難の奇妙な側面、暗く痛ましい側面です。最初の人は自分からイエスに、「新しい友人になる、苦しみを共にする者になる」と申し出ます。感動のあまり、「あなたがお出でになるところなら、どこへでも従って参ります」とイエスに呼びかけます。しかし、イエスは、このエルサレムへ向かう道は週末の楽しいピクニックなどではないという意味のことを言って、その人をそっけなく斥ける。そんなもんじゃない。問題は自発的な決心などではない。そのことが、実に簡潔に明らかにされます。よく考えて御覧。これまでだって、巡回説教者イエスと一緒にあちこち歩き回るのは、一緒にいたすべての人にとって容易なことではなかった。これからだってそうだろう。エルサレムへ向かう道は、十字架への道なのだ! そしてそれは、敵視・迫害・死を意味するのだ…。イエスはここで本気になっています。彼は新しく加わった人たちに手品を見せているわけではない。彼らの目を一旦くらまし、それから種明かしをすることによって弟子を集めているのではないのです。いいえ。イエスに従うということは、子供の遊びではない! 他の二人についてはどうでしょうか。イエスは二人を呼び、「わたしに従いなさい」――「一緒に来なさい」と言います。しかし、この二人には、人間的に言えば、躊躇するに十分な理由があった。なぜなら、彼らは自分たちにとって非常に大事なことをその前に済ませておかなければならなかったからです。確かに彼らは、公序良俗(公の秩序と善良の風俗)が要求する十分な理由を彼らなりに持っていました。故郷を去る前に死者を葬るとか、見知らぬ土地へ行く前に自分の家族に別れを告げるとかいうのは、それに当たらないでしょうか? もしかしたら、イエスに従うということは二度と帰らぬ旅立ちかもしれないし、それは誰にも分らないのですから。

IV

 キリストにあって愛する兄弟姉妹。

 私はこの他に、この道の道端に立っているもう一人の人のことを思い浮かべています。この人もイエスによって「わたしと一緒に来なさい――私に従いなさい」と呼びかけられている。しかし、この人は動くことができない。自分自身の中で固まっているのです。彼の考えと行動は、ただ自分の周りを回っているだけ、既に何度も考えたことをもっと強く、もっと頑固に思っているだけです。彼はいつも一緒にいた人々と交わるだけ、既に知っていたことを確認するだけ、これまで振舞っていたように振舞うだけです。この人は、マルチン・ルターが「罪」に対して与えた古典的な定義に言われているように、自分自身の中で曲がっているのです。この人は死んだように硬直している。なぜこんなに硬直したのか? 人生で、自分からは動けなくなる程に辛い経験をしたのでしょうか? 他の人々が彼に何かしたのでしょうか? その人たちからはもう何も良いことを期待できなくなる程のことを? あるいは、いかなる罪責を彼は自らに背負い込んだのでしょうか? そのために抑圧され、そこからもう自分を解放できなくなる程の罪責を? 神はなぜ彼にご自身を隠し給うたのでしょうか?

 しかし、愛する皆さん、それにもかかわらずこの人は、どんなに内的・外的な硬直があっても、自分が動けるようになること・自分が変えられること・新たに出発すること・生き生きと生きることへの深い憧れに満たされています。そして、もう一度「健やかに」なりたいというこの憧れが、出て行ってエルサレムに向かう道の道端で好奇心に満ちてイエスを待つように彼を導いたのでした。そして、この人をイエスはお招きになります。「わたしと一緒に来なさい! 旧いものは後に置いて方向を変え、自分を棄てて私のところへ来なさい。私に従いなさい!」

V

 さて皆さん、今やイエスの受難の明るい、解放的な側面が現れます。イエスは非難しません。有罪宣告もしません。非難や批判だけでは、誰も生きることはできないし、命に到達することはありません。イエスがそこから私たちを呼び出された所、そして私がそこから向きを変えて出て行かなければならぬ所、そこは彼によって、あまり良くない人生の場として明らかにされました。それは、根本的には既に始まった死なのです。それに反して、私がそこへと向かって行くべき所は、イエスによって、より大きな富として、そしてより明るく輝く美しさとして私たちの目の前に描き出されています。イエスの服従への招きは、まだ実現していない人生、まだ試みられたこともない人生への誘いなのです。この解放や学習を可能にするものは何か。これまでの不幸を暴露するだけではだめです。むしろ、これまではまだ手に入っていない幸せの約束への期待が、それを可能にするのです。

 お互い私たちには、イエスによって、この「神の国」の輝くばかりの幻が示されています。そして、この幻は私たちを惹きつける魅力を十分に持っている。というのは、そこでは「正義と平和が口づけし」詩編85,11)、私たちの「目の涙はことごとく拭い去られる」ヨハネ黙示録21,4)からです。この幻を目指して、私たち全世界のキリスト者は共に歩いています。私たちが相共に祈り、人々の間で正義を行うところ、そこに受難のキリストは共におられ、そして、そこで、私たちは復活の朝の光に囲まれるのです。アーメン。

 我らのすべての理性よりも高い神の平和が、我らの心と感覚を、我らの体と魂をキリスト・イエスにあって守って下さいますように。アーメン。



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