2005・11・13

召天会員記念礼拝「死者の復活」

村上 伸

ヨブ記19,23-27テサロニケ第一4,13-18

 召天会員記念礼拝に際し、ご遺族の方々に心からご挨拶を申し上げる。天に召された懐かしい方々のお名前は週報裏面に記した。講壇の前に飾られたお写真も、故人を偲ぶよすがとなる。だが、何よりも先ず、共に神の言葉を聞きたい。

 今日の箇所で、パウロは「ほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(13)と前置きした上で、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」(14) 、と述べている。「イエスは死んで復活された」というメッセージは、私たちの嘆きや悲しみを取り除く、というのである。これは本当だ。

 これに少し説明を加えたのが、『ローマの信徒への手紙』8章34節である。「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」

 これはどういう意味か? ――キリストは私たちのすべての罪を負って十字架上で死なれた。しかし、死んで過去の人になったわけではなく、目には見えなくても再び活ける者となり、「神の右に」座られた。「右」とは、「力」を意味する。神の力を受けて私たちに伝えることができる場所。それが「神の右」だ。復活した主イエスは、その「神の右」に座って私たちのために執り成して下さる、というのである。

 さて、この信仰を告白した後で、パウロは「信仰を抱いて死んだ人々は、死後どうなるのか」という問いに答えようとする。それが今日の箇所である。彼は、「神は・・・イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出して下さる」14節後半)とか、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」(15節)とか言う。これは、極めて神話的な表現である。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来る」(16節)とか、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられる」(16節後半〜17節)という言葉に至っては、現代人にはとても受け入れられないかもしれない。だが、パウロはここで荒唐無稽な法螺を吹いているわけではない。

 マルク・シャガールの絵を例にとって説明しよう。彼が描く世界は、暗く重苦しい現実とは反して、この上なく美しい色彩と光とファンタジーに満ちている。しばしば上と下とがひっくり返り、過去と現在が交錯する。幸せな恋人たちは空を飛び、羊や山羊などの動物が優しい表情でそれを見守る。

 彼が育ったのは、「ハシディーム」と呼ばれる敬虔なユダヤ教徒の家庭であった。この人たちの中には、目に見えるこの世の現実の背後に「神の創造の美しさ」を生き生きとイメージする精神が生きていたと言われる。シャガールはそのイメージの中で呼吸していた。そして、それを絵に描いたのである。

 同じことはパウロについても言えるのではないか。彼は、あの時代のユダヤ人が共有していた豊かなイメージの世界で生き、それを用いて考え、それに託して語ったのである。先に引用した言葉も、そこから生まれたものだ。

 その中から、二つだけ指摘しておきたい。一つは「眠り」のイメージである。イエスを信じて死んで行った人たちは「眠りについた」というのがそれだ。その際、彼が不眠に苦しんだという事実を念頭に置くと、そのイメージはさらに豊かになるかもしれない。パウロは、『コリントの信徒への手紙二』11章26〜27節で、「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折った」と述べ、そのために「しばしば眠らずに過ごした」と告白している。だから、「イエスを信じて眠りについた人たち」と言ったとき、彼の心の中には、その人たちの安らかな眠りを心から祝福する気持ちがあったのではないか。私はそう思いたい。

 この頃、私はよく眠れないことがある。とくに、海外に旅行した後など時差ボケの影響が長く残って寝つきが悪く、眠りも浅くなる。4時頃には目が覚めてしまう。グーグー眠る人を見ると実に羨ましい。加えて、最近は恐ろしいニュース(災害、戦争、テロ、疫病など)が多い。それを聞くと心が騒いで、目が冴えてしまう。しみじみ、「眠り」とは何と素晴らしいものか、と思う。

 だがパウロは、信仰を抱いて死んで行った人たちは恵み深い神の懐で、あらゆる苛立ちや苦しみから解放され、不眠からも解放されて「安らかに眠っている」と言う。私たちをホッとさせる慰め深い言葉だ。これは、私たちもやがて主のもとで安らかに眠る、ということを約束するメッセージに他ならない。

 もう一つは、「共にいる」というイメージである。イエスを信じて死んだ人たちは、時が来れば眠りから「導き出される」。そして、「生き残っている」私たちよりも先に天に上げられ、そこで、後から行く私たちと一緒になる。そして、「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(17節)、というのである。

 この世では、私たちはしばしば引き裂かれる。憎しみが、さまざまな不幸が、災害が、そして何よりも戦争が、私たちを愛する者たちから引き裂く。それが現実だ。だが、神の右に座って執り成して下さる復活者キリストによって、私たちにはその現実の背後にあるイメージが見える。私たちは、天で、必ず愛する者たちと再会し、「一緒になる」。そして、恵み深い主と永遠に「共にいる」ことになる。このイメージを心の中に描き続けて生きることが、私たちの人生なのである。


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