2005・11・6

「神に喜ばれる生活」

村上 伸

アモス書5,21-24テサロニケ第一 4,1-8

 パウロは今日の箇所(4章1節)で、テサロニケの信徒たちに向かって、「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました」と言う。そして、「現にそのように歩んでいる」と評価し、「どうか、その歩みを今後も更に続けてください」と励ましている。

神に喜ばれるために歩む。これが、キリスト者の生活の基本である。衣・食・住など単純な問題に関しては難しく考えなくてもいい。「社会の習慣」に従って生きても一向に構わない。だが、人生の重要な問題で判断に迷うような場合は、「神に喜ばれるかどうか」を基準にして考え・決断すべきだ、とパウロは言うのである。

その上で、彼はここで、とくに「性」の問題を取り上げる。これが中々難しい問題であることを知っていたからであろう。先ず、いくらか抽象的な表現で「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(3)と言う。そして、「聖なる者となる」ということの内容を、「みだらな行いを避ける」(3節)とか、「神を知らない異邦人のように情欲におぼれない」 (5節)といった具体的な言い方で規定する。

しかし、多分、多くの人はここで抵抗を感じるのではないだろうか。第1の理由は、「私たちは欠点の多い凡人だから、とても聖なる者にはなれない」と感じているからだ。だが、もっと大きな理由は、こうした「性道徳」には常に何らかの「いかがわしさ」がつきまとっていることを、私たちが敏感に感じ取っているからである。

歴史上、「性道徳」は常に支配の道具であった。男性が女性を支配する、あるいは権力者が力を持たない民衆を支配する「支配・被支配」の構造の中で、それは声高に語られた。戦時中の日本が一方で「女性の美徳」を強調しながら、アジアの女性たちを平気で慰安婦にしたのは、その最も恥ずべき実例である。ナチス・ドイツは、アーリア民族を増やすための道具として女性を使い、金髪・碧眼の子供たちを盛んに生ませた。さらに、あらゆる権力者は、女性に貞淑さを要求しながら、その子供たちを片端から戦場に送り込んだ。ベトナム戦争の頃流行った "Make love, not war" という言葉は、支配層が声高に叫ぶ「いかがわしい性道徳」に対する民衆の抗議だったのである。

では、パウロがここで「性道徳」を論じているのは何故か?そこにも「いかがわしさ」を嗅ぎつける人々がいる。しかし、私はここで別のことに注目したい。

テサロニケの信徒に限らず、パウロの手紙の読者であった人々を取り囲んでいたのは、異教の偶像礼拝的な世界であった。そして、偶像礼拝は「自己の欲望を神とする」ことに他ならないから、多くは性的な退廃を伴う。出エジプト記32章には、モーセが十戒を授かるために山に登っている間、指導者の長い不在に不安を感じたイスラエル民族が「金の子牛」を造り、この偶像を自分たちの「神」として崇め、犠牲を捧げて礼拝したという話がある。これは直ちに性的な退廃を生んだ。その直ぐ後に「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」(6節)とあることからも、それは明白だ。

イスラエル民族は、その後カナン地方に定住したが、そこにはバアルに代表される土着の神々があって、その偶像が高い所で礼拝されていた。それは、動物の繁殖力を象徴したもので、人々の淫行を誘った。イスラエル民族も例外ではない。彼らは、エジプトの奴隷の地から解放して下さった神ヤハウエを裏切って、バアル礼拝へ、そして性的な淫行へと誘惑されたのである。預言者ホセアがそのことを嘆いたとき、彼は偶像礼拝と性的な淫行をほとんど一つのこととして捉えていた。

このことは、言語学的にも確かめられる。「淫行」の原語は「ポルネイア」だが、これは「性的にふしだらな行為」を意味すると同時に、「偶像礼拝」という意味でもある。パウロはコリントの信徒たちに向かって、「正しくない者は神の国を受け継げない」(1コリント6章9節)と警告し、「正しくない者」の実例として、ほとんど一息で、「みだらな者、偶像を礼拝する者」と言っているが、そこでも淫行と偶像礼拝は本質を同じくすることとして扱われている。

とすると、今日のところでパウロが「みだらな行いを避けなさい」(3)と勧めているのは、支配の道具としての性道徳を口やかましく説くためではなく、偶像礼拝(=自己の欲望を神とすること)を斥けるためではなかったか。「神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならない」(5節)という言葉に続けて、「兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけない」(6節)と戒めたのもそのためではなかったか。自己の欲望を中心に考える偶像礼拝は、必然的に同じ人間仲間(兄弟)を踏みつけたり、欺いたりすることにつながる。「みだらな行い」も同じだ。これは避けなければならない。

一昨日、日本YWCAの「創立100年記念音楽会」があって、私もそれに出席した。配られたパンフレットの最初の頁に、江尻美穂子理事長が挨拶を書いている。

「100周年にあたって、私どもは、日本YWCAが社会に対して貢献できたことや、また逆に、社会の動きに流されて気づかずに犯した過ちについて、戦前40年、戦後60年の自己の歴史を可能な限り顧みました。そこから、平和と人権を守る女性グループとして、キリスト教基盤に立ち、新しい100年に向けての第一歩を踏み出そうとしております」。

私は、この決意表明に心から共感する。YWCAの目標は、女性と男性とが真に平等なパートナーとなって平和と人権のために共に働くことであろう。これは、私たちの教会にも共通の目標である。そして、それはパウロが今日の箇所で言っていることと深い所で通じているのではないだろうか。


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