2005・6・19

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「悪を善に変える神」

村上 伸

創世記50,15-21ローマ11,28-36

 今日の箇所を理解するためには、あの長い「ヨセフ物語」(創世記37〜50章)を読み直す必要があるが、今日の説教では先ずそのあらすじを物語風に辿ることにする。

 アブラハムやイサクと共にユダヤ民族の先祖とされるヤコブには、12人の息子があった。第1夫人レアから生まれたのがルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン。第2夫人ラケル(レアの妹)から生まれたのがヨセフとベニヤミン。そして、ラケルの召し使いビルハからダンとナフタリが、レアの召し使いジルパからガドとアセルが生まれた。イスラエル12部族の由来である。

 今日の物語の主人公ヨセフは、父ヤコブが年をとってから生まれた子であった。その後ベニヤミンが生まれるが、それまでは末っ子で、しかも、ヤコブが一番愛したラケルの子であったから彼はどの息子よりも可愛がり、特別に「裾の長い晴れ着」を作ってやったりした。この「えこ贔屓」が問題の根である。その上、少年の頃のヨセフはやや「お調子者」で、得意になって自分が見た夢の話をしたりする。「夢の中で兄さんたちが僕にひれ伏した」というのだ。そのために、兄たちにひどく憎まれた。

 17歳のとき、遠くの牧草地で羊を飼っていた兄たちは、後から無邪気にやって来たヨセフを、「チャンスだ!」とばかりに捕まえて殺そうとする。さすがにそれは出来ない。例の晴れ着を剥ぎ取って穴に投げ込むだけにする。すると、そこを通りかかった隊商がヨセフを穴から引き上げてエジプトに連れて行き、奴隷に売りとばす。売られた先は宮廷の侍従長の家だった。ヨセフはそこで頭角を現し、主人から家政全般の責任を任されるようになる。主人の妻はこの美青年ヨセフが気に入ってしつこく誘惑するが、彼は決してウンと言わない。逆恨みした彼女はヨセフに無実の罪を着せる。可哀相に、彼は牢に入れられてしまう。このように、波乱万丈の物語が展開する。

 さて、ヨセフには夢を解釈するという特異な才能があり、これが物を言う時が来る。ファラオが見た不吉な夢を解いたために、彼は牢から解放されたばかりか、エジプトでファラオの次に大きな権力を与えられる。その頃、夢に示された7年間の大豊作が始まった。その間に彼は出来るだけ大量の穀物を倉庫に蓄えさせた。そのお陰で、この国は続いて起こった7年の大飢饉の間も食糧に困ることはなかった。カナン地方に住むヤコブ一族にも「エジプトに行ってその賢い大臣にお願いすれば穀物を分けて貰えるらしい」という噂が届き、兄たちはエジプトにやって来る。ヨセフは一目で兄たちだと気づくが、兄たちは、まさかこの人がかつて自分たちが殺そうとした弟であるとは夢にも思わない。その前後の駆け引きは実に興味深い。トーマス・マンは、この物語をもとにして『ヨセフとその兄弟たち』という大河小説を書いたのである。

 さて紆余曲折の末、ヨセフは遂に「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」(45章3節)と正体を明かす。兄たちは驚きのあまり口も利けない。だが、ヨセフは続けてこう言う。「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(45章5節)。和解が訪れる。ヨセフは兄弟たちと抱き合い、万感胸に迫って泣く。「その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」(15節)。

 老いた父と兄弟一同はエジプトに移住し、ヨセフの保護の下で安らかに暮らすが、間もなく父ヤコブは病気になり、息子たちに祝福を与えた後で永遠の眠りにつく。遺体は遺言によって故郷に運ばれ、盛大な葬儀が営まれた。すべてのことが終わってから、一同はエジプトに帰って来る。

 今日の箇所に、「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った」(15)とあるのは、その時のことだ。父の死後、急に心配がぶり返したのである。そこで、父の遺言だと偽って、もう一度、「かつてのことは水に流す」という約束を取りつけようとし、ヨセフの前にひれ伏して懇願する。

 だが、ヨセフは本当にあのことを根に持ってはいなかったのだ。彼は兄たちを慰め、優しく語りかけ、こう答える。「わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(19〜20節)。

 人間の企む「悪」を、神は「善」に変えることが出来る。それだけではない。その「悪」を「多くの民の命を救うため」の機会とすることさえ神には可能だ、というのである。これが、神の歴史支配に関するヨセフの信仰であった。

 しかし、誤解があってはならない。「悪」を企んで実行した側、つまり、兄たちがこんなことを言ったりすれば、それは自分たちの「悪」を正当化することになる。それは許されない。「悪」がもたらす苦しみを受けた側、理不尽な苦難に耐えて、いわば「それをバネにして」生き抜いた人だけが、こう語ることを許されるのである。

 ボンヘッファーは『十年後』というエッセーの中に、「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生まれさせることができ、またそれを望まれるということを、私は信じる」と書いた。ヨセフの信仰告白と同じである。だが、そのすぐ後にボンヘッファーはこう続けている。「そのために神は、すべてのことを自らにとって益となるように役立たせる人間を必要とされる」

 すべてのこと、つまりどんな苦しみをも、「自らにとって益となるように役立たせる人間」。私たちがそのような人間となることを、神は望まれる。そして、ヨセフはそのような人間になったのであった。


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